真夜中にひらめいた ホンダジェット奇跡の設計図
戦後、日本はさまざまな産業で先端を走ったが、不得意だった分野もある。航空機だ。そこには様々な理由があり、いまでも苦手意識を克服できていない。米国のビジネスジェット市場で首位という金字塔を打ち立てたホンダジェット。開発者、藤野道格(58)が挑んだのは、そうした日本への偏見と、常識との戦いでもあった。 ■カレンダーの裏にかいたスケッチ 流線形の小さなボディーに真っすぐ伸びる翼。その上に置かれたふたつのエンジン――。藤野道格の目にその姿が浮かんだのは、眠りにつく間際の暗闇の中だった。 急いで部屋の明かりをつけてノートを探すが、手元にはない。藤野には、ほんの一刻が惜しかった。頭に浮かんだその飛行機をすぐにでも紙に書きとめないと姿を消してしまうかもしれない。藤野は壁に貼っていたカレンダーを一枚破り、その裏に無心でスケッチを描き始めた。 「スレンダーなボディー。リーディングエッジ(前縁)の角度は12度くらいか、それならほぼ直線翼になるはずだ。ノーズはフェラガモのハイヒールみたいに……」 1997年夏のことだった。その時に描いた飛行機こそ、現在のホンダジェットの原形だ。藤野は今も大切にそのカレンダーを持っている。 ■古書店でみつけたヒント 機体が小さいビジネスジェットでは、大型機のように主翼の下にエンジンを取り付けることができない。機体の高さが足りずに地面に引きずってしまうからだ。従って通常は胴体の後部に取りつけることになる。だが、それだと胴体の強度を保つために構造がごつくなる。エンジン音も客室に直接響くことになる。 それなら主翼の上につければどうか。藤野は「決して思いつきではなかった」と言うが、航空工学の世界ではあり得ないとされた発想だった。エンジンと翼の間で発生する空気の流れの「干渉抵抗」が大きくなってしまい、どうしても飛行が不安定になるからだ。 だが、本当にそうなのだろうか――。航空機の常識を疑うヒントとなったのはドイツ人学者による流体力学の講義録だった。発刊されたのは1934年。藤野が米アトランタの古書店で見つけたものだ。 ■主翼の上にエンジン?「バカな」 その本を何気なく手に取って斜め読みしていた時に、藤野は「主翼の上にエンジン」のアイデアに行き着いたという。翼とエンジンが作る複雑な空気の流れをコントロールできれば決して不可能ではない。藤野は思わず鉛筆を手にとってそのページに空気の渦のイラストを描き込んだ。「これなら行ける」 だが、藤野のひらめきは周囲からは相手にされなかった。
「こんなバカなエンジニアは見たことがないな!」。真っ先に罵倒したのがホンダの上司だった。それにもめげず論文にして発表しようとした藤野に米航空宇宙局(NASA)で働く研究仲間が「待った」をかけた。「やめろ。君の選手生命が終わってしまうぞ」 あきらめきれない藤野は、論より証拠でしめそうと考えた。カレンダーに描いた風変わりな航空機をもとに模型を作り、実際の空気の流れを確かめる風洞試験にかけてみてはどうか。ただ、ホンダにはそんな設備はない。藤野がその模型を持ち込んだのは、米シアトルにあるボーイングの実験設備だった。 ■日本が遅れた「空白の7年」 「おいおい、こんなの本当に大丈夫か」。ボーイングの担当者は「我々のことを相手にもしないという態度でした」と藤野は振り返る。後で分かったことだが主翼の上にエンジンがある飛行機は案の定、ボーイングのエンジニアの間で格好の笑いの種になっていたという。 ところが、4週間の実験で抵抗値が急に下がる「スイートスポット」が見つかった。「正直、ホンダのやつらは飛行機のことを分かっちゃいないと思っていたけど、すまなかった」。藤野を笑っていた担当者は率直にこう打ち明けてくれた。 ボーイングが藤野らをバカにしたのも無理はない。日本は戦後、工業立国として経済成長を遂げたが、航空機に関しては不毛の地のままだ。立ち遅れた原因として指摘されるのが「空白の7年」だ。 ■新幹線が代替に 日本の再軍備化を防ぐためGHQ(連合国軍総司令部)が終戦直後に航空禁止令を出したのだ。航空禁止令が解除されたのは1952年。この間、世界の航空機は自動車のようなレシプロエンジンからジェットエンジンへと進化を遂げていた。 「空白の7年」はちょうどイノベーションによる航空機産業の転換期にあたっていたわけだ。その後も、1964年に開通した新幹線が段階的に拡大して、全国主要地域をつなげる高速インフラに発展していくと、航空機国産化の機運はしぼんでいった。 日本の産業界にぽっかりと空いた航空機という空白地帯。その穴を埋めようとする藤野らにとって最大の壁となったのが「常識」だった。 ■試験飛行の日 主翼の上にエンジンは置けない。そんな常識を打ち破った藤野だが、次の壁はさらに高かった。「まさか自動車メーカーが航空機を事業化できるわけがない」。それは他でもないホンダ社内に存在する「内なる壁」だった。 2003年12月3日、米ノースカロライナ州グリーンズボロの空港。その日はホンダにとっても日本の航空産業にとっても記念すべき日、となるはずだった。 藤野は滑走路の脇にある倉庫でじっとモニターを見つめていた。壁の向こうからかすかにジェット音が聞こえてくると、モニターに映る曲線と数字が動き始める。 あのカレンダーに描いた日から6年余り。ついにおとずれた試験飛行の日だ。手塩にかけて作り上げたホンダジェットがようやく空に飛び立とうとしている。初フライトの瞬間はあっと言う間だった。あいにくの曇天に飛び立ったホンダジェットが雲の中に消えていった。 ■トルベからの電話 ただし、それは始まりを告げる号砲ではなく、終わりへのカウントダウンだった。 「飛んだら終わり。その後はないからな」。初飛行の直前、藤野には上司から非情な宣告が下されていた。実はこの時すでに、ホンダの航空機プロジェクトは事業化はしない意思決定がなされていた。藤野もそれは承知の上だ。 初飛行の成功に湧くジェット機開発チーム。だが、藤野は歓喜の輪から早々に飛び出した。なにもかも忘れたい。そう思って車に乗り、ハンドルを手にした直後に藤野の携帯が鳴った。藤野の耳に飛び込んできたのは懐かしい声だった。 「やあ、フュージノ、元気か」 恩人のレオン・トルベからだ。ロッキードの元技術者で、藤野が1990年代にホンダ元社長の川本信彦の命をうけて米ミシシッピ州に航空留学した時代、飛行機作りを教えてくれた恩師だ。相変わらず「フジノ」と発音してくれない。初飛行に成功したことを伝えると、恩師はいつものように陽気な声で祝福してくれた。 ■「必ず買いに行くから」 「明日から休みを取るので帰ってきたらまた連絡します」。藤野はそう言うと電話を切った。 翌日、藤野は家族とともにカリブ海のリゾート地、バハマにいた。会社に残ってもホンダジェットに未来はない。それならいっそ、設計図ごと他社に売ってしまおうか――。疲れ切った心身を休めるつもりでも、ついつい今後のことを考えてしまう。 ある朝、家族とホテルで朝食をとっていると隣のテーブルに座る紳士が話しかけてきた。不動産会社を経営しているというその紳士が話題にしたのが「ホンダの飛行機が初フライトに成功した」というニュースだった。どうやら飛行機マニアのようだ。 「実は僕がやっているんですよ」 藤野が告げるとその紳士が「あれはすばらしい飛行機だ。売り出したら絶対に教えてくれよ。必ず買いに行くから」と言う。リップサービスだろうと思ったが、本気のようにも見えた。 ■師匠の最期 不思議な感覚だった。それまで何度「想定顧客」と紙に書いてホンダの上層部にプレゼンしただろうか。だが自分の作った飛行機を本当に買いたいと言ってくれる人に出会えたのはこれが初めてだった。 「こんな風に言ってくれる人もいるなら、やっぱり挑戦する価値はあるんじゃないか」 少しだけ前を向く気になれた藤野に、またも悲報が待っていた。米国に戻った藤野がトルベに何度電話しても応答がない。 「レオンが脳梗塞で倒れたの」 トルベのガールフレンドからだった。病室で横たわるトルベに、藤野はホンダジェットの初飛行の映像を見せた。「トルベさん、元気になって僕が作ったこの飛行機に乗って下さい。絶対ですよ」 だが、その約束はかなわなかった。トルベは最後に藤野にこう告げた。「俺が死んだら家にある資料は全部お前にあげる」。藤野は言葉を返せない。これが恩師との最後の会話になることは容易に察しがついた。 ■「このままじゃ終われない」 後日、トルベの遺言通りに藤野は米アトランタ郊外にあるトルベの自宅を訪ねた。殺風景な地下室は、かつて朝から晩まで飛行機作りを学んだ日のままだった。本棚には「Honda」と書かれたファイルが置かれていた。ページをめくると地下室で過ごした時間が、藤野の脳裏によみがえる。 「俺はトルベさんと約束したはずだ。このままじゃ、終われない」 ミスター・ホンダジェットが退路を断った瞬間だった。「会社が認めないと言うなら、認めさせるまでだ」 =敬称略 (杉本貴司) nikkei.com(2019-01-08) |