(凄腕つとめにん)大嶋敬治さん スキーの金型手作り、1万2033組■小賀坂スキー製作所 技術部係長(57歳) 広瀬香美の曲が流れ、スキー場がカラフルなウェアでにぎわっていた、1990年代前半。バブルの名残もあり、スキーの国内販売数は300万台に上った。しかし、ここ数年は約40万台まで減り、そのうち9割は輸入品だ。 国内メーカーが次々と撤退するなか、長野市のログイン前の続き小賀坂スキー製作所は、玄人好みの質の高さを売りに、今年、創業105年目を迎えた。昨年の全日本スキー技術選手権大会では男子優勝者が使用するなど、技術を追求する「基礎スキー」のトップブランドだ。 ここで40年近く、スキーの原型となる「金型」を作り続けてきた。金型はたい焼き器のように、上型と下型がある。その間に、滑走面となるポリエチレン層や木の芯材、繊維強化プラスチックなどを重ね、接着剤と一緒に挟み込むことで、同じ形のスキーが何百、何千台と作られる。新作モデルは毎年開発されるため、試作を含めると左右ペアで年100組以上、スノーボードなどを入れれば、これまでに計1万2033組の金型作りを担ってきた。 機械化が進み、スキーの輪郭は専用の工作機械で加工できるようになった。だが、スキー特有の「反り」を金型で再現するのは、依然、手作業だ。 スキーは床に置くと、前部と後部が接地し、中央部は浮いている。このアーチ状の反りのおかげで、人が乗るとスキー全体が雪面に張り付いて安定感が出る。ターン時には、そのたわみと反発で切り替えがスムーズになる。 反りを正確にかたどるには、まず木材を機械で削って曲面を作り、それとぴったり一致するまで、金型を曲げていく。金型用のアルミ板は、厚さ15ミリ以下、長さ2メートル弱。これを「三点ローラー」に入れ、手動で圧力をかける。曲がり方は手加減次第だ。「心で感じながら、丁寧に丁寧に」 無理に曲げるとアルミにひずみが出来る。コツを覚えるのに、15年は費やした。「今でも難しいと感じる。アルミと『仲良く』ならないとね」 入社したての20歳のころ、開発に関わったモデル「ユニティー3」は、今も忘れられない。「SAJ(全日本スキー連盟)の多くの指導者が使っていた」(同社)というヒット商品だ。当時は輪郭の加工も手作業で、今よりずっと時間がかかったという。 何台もスキーを試作し、連日のように車で1時間以上かけてスキー場に通った。専属の試乗者の意見を聞き、金型の改良に役立てる。開発にあてたシーズンも終盤、試乗者から「このスキーで、君も滑ってみろ」と言われた。自ら試すと、難しいこぶ斜面でも驚くほどスムーズに滑れた。「あのときは、涙が出そうだった」。名機が誕生した瞬間だった。 少子化や趣味の多様化で、国内のスキー人口は激減している。「寂しいよね。一度でも体験すれば、大自然を満喫できる楽しさが、わかると思うんだけどね」。それでも、日本の雪質と日本人の滑りを知り尽くした「オガサカ」は、全国に根強いファンがいる。金型作りを始めて2年目の後輩に、自分の技術を伝えることが、最後の務めだと思っている。(小林豪) <プロフィル> おおしま・けいじ 群馬県出身。中学生のとき長野県高山村に引っ越し、高校を卒業した1977年、小賀坂スキーに入社。直後からスキーの金型作りを担当し、ほぼ独学で技術を身につけた。 ◇凄腕のひみつ ■命のローラー 「命を吹き込んできた」という三点ローラーは、入社時から同じものを使用。上のハンドルを回すと上部のローラーが下がり、アルミ板を押し曲げる。目盛りはないため、感覚が全てだ。 ■決め手は体力 群馬県嬬恋村で過ごした幼少時代、近所の畑に積もった雪山でスキーを覚えた。50代になっても、休日の多くはスキー場に通い、自分の金型でできたスキーを試乗する。各モデルに求められる性能が、きちんと反映されているかを確認するためだ。「金型作りは体力が肝心」と、スノーボードやサーフィン、水泳もこなす、根っからの運動好き。
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