「中国ビジネスを進めるにあたって」2001年に初めて中国のビジネスに携わるようになりました。広州ホンダ様のニューモデルの導入と大幅増産に伴い、協力メーカーが20数社現地進出することとなり、その先陣を切るような形で高尾金属・菊池プレスの合弁で『100%日本資本の独資会社』を設立し、初代の董事長兼総経理を担当することになりました。会社認可申請後、異例の早さ(通常は1カ月、広州ホンダの日本人からは下手をすると3カ月必要かも)の2週間で認可を得る、と言うように、表面的には、順調に進められましたが、内実は現地政府(開発区など)の力添えによるところが多分にありました。税制面の恩典も受けられるようになりましたが、それも現地政府関係者との度重なる調整の結果であり、『広州で最初に認可した100%独資会社を失敗させるわけには行かない』という政府(開発区)としての思いと、『広州ホンダのニューモデルの立ち上げに支障を来たせるわけには行かない』というGHAC(広州ホンダ)・ホンダ技研・日本マザー会社の思い 『中国に自分の持てるものを残す・人材を育てる』『中国で仕事をさせて頂くのだ』と言う小生の思いが一致し、『良い人間関係』が出来たからこそうまく行った、と思っております。 しかしながら、順調に進んでいる中でもいくつか頭を悩ませる問題に直面しましたが、その都度協力・サポートを頂きながら解決していました。(その大半が、中国政府や中国人のサポート) しかし、2002年9月に労働問題を引き起こし、客先のGHAC様にも多大の迷惑をかけることとなりました。このときに一番感じ・反省したのが『駐在員の教育』が出来ていなかったことであります。常に、現地の人たちに指導が出来る・人望があるように育成しなければならなかったわけですが、GHAC様からの要請である、増産対応・2期工事の段取りなどに注力し、肝心の駐在員の教育・現地人の教育・コミュニケーションを高めることに対しての目配り・注力が出来ていなかった結果です。 中国で仕事を始めるに当たっては、
最近の中国の労働事情を考えるときに、私が仕事をするようになった1967年当時を思い起こし、比べてみると いろいろのことが大変よく似ている。1950年代には、欧米のものまねからスタートし、1960年代にはオリンピックも開催され高度成長へ向かっていた。池田勇人総理が所得倍増論を唱えたのは、1960年代初めではなかったでしょうか?1950年代から60年代初めにかけて、頻発した労働争議(スト)も一部の業種を除いて、殆どなくなっていました。 ホンダでの初任給が当時31300円でした。今の中国は2300元から2600元(30000円から35000円相当) 会社の昼食が45年(半額会社負担なので、実質90円) これも今の中国とほぼ同じです。ラーメンが1杯40円前後ではなったでしょうか。自分で車を持つようになるとか、海外出張をするとか、海外に頻繁に出かけるなどは想像もしていなかった。それが、入社10年15年では定期昇給とベースアップを合わせて、給料では7倍から10倍になり、車も持つようになった。海外出張もするようになった。 1970年代後半には、30%前後給与が上がる時期もありました。田中角栄総理が、日本列島改造論をぶち上げたて時期とも重なります。バブル期へと進んだわけです。企業の多くが、バブルに浮かれて、不動産投資や、金融商品や本業以外に手を出すところも多かったのですが、ホンダ技研はひたすら本業のみに集中していました。 少し中国の現状を見てみたいと思います。今、中国では、5年間で所得倍増を政府が唱えております。地方と沿岸部の格差を是正する動きもあります。(実際には、ますます、格差は拡大しているようですが・・・・)労働法も、労働者保護の方向で2008年に2つの法律が改正(制定)されました。
1.2008年1月1日施行の『労働契約法』
2.2008年5月1日施行の『労働紛争調停仲裁法』 一方で、労働事情も大きく変化してきています。『民工荒』という現象が数年前から現れています。農村部から、沿岸部に出稼ぎに来、3年から5年くらい国元へ仕送りをしながらお金をためて故郷へ帰り、次の世代の農民工が出てくる。というサイクルで会ったのが、出てきた農民工が国元へ帰りたがらず、より高い給料を求め、都会の生活を享受する、という動きが増えてきている。また、貧しかった農村部にも、地方の活性化と言う事で仕事が増え、わざわざ沿岸部に出てこなくてもよい状況になりつつある。1980年代以降(一人っ子政策以降)の若者には、権利主張が強くなる一方で、我慢をする・耐えるという気質が薄れてきています。インターネットの発達、携帯電話の普及が情報伝達・騒動の伝播に大きく影響をしています。広州で朝起きた出来事は、その日のうちに天津の別の会社にも知れ渡るのです。隣の会社の給与も全て判ってしまうのです。政府も、従業員の給与が上がることは、好ましいことと捉えている節もあります。仏山市で起きたストの際・広州・南沙で起きたストの際にもそれらしき兆候は表れておりました。 また、経理を担当している現地人スタッフは、日本人駐在員や出張者・支援費用などは知っているのです。自分たちの費用と比較すれば、明らかに大きな差があることは知っていますし、それが他の従業員に知れ渡る、と言う事は大いにありうるのです。その費用に見合う仕事をしているか、指導をしているか、支援をしているか???と言う事も見ています。有能な・有益に人の給与が高いことに対しては、余り拘りません。(是認する)しかし、それに見合わないということになれば、大きな問題につながる可能性があります。ここで重要なのが、日本人(駐在者も支援者も含めて)の教育とレベルアップ、コミュニケーション力アップです。当然、日本側の認識・理解も求められます。
次に、中国ビジネスをどのようにとらえるか?も大きな問題です。 大きく、この二つに分類されるか、と思います。1.においても、ホンダが進出するまでは、世界で使い古したモデルを、それなりの品質で提供すればよい、と言うところばかりでした。中国のことをバカにしている、としか思えません。ホンダでは(本田宗一郎さん)は、このことを強く戒めておりました。2.で進めるとすれば、より安い賃金を求めて、流浪の旅に出なければならなくなるかもしれません。中国がだめなら、ベトナム・インド・ミャンマー、さらにはアフリカ、とさまようのでしょうか?中国には(中国以外の新興国すべて)は、大きな市場でもあるのです。 生産会社だけでなく、サービス業でも教育産業でも、中国で受け入れられる・望まれる企業を考えていかなければならない、と思います。給与が上がることは、一般の消費力が上がり、自らの商品も購入して頂ける良い機会、と捉えることも出来るわけです。
最近の労働問題に関して
小生なりにいくつかの問題点・原因らしきものを考察すると
今回ストが起きたことに関してすべて熟知しているわけではないが、いくつか知り得た情報を整理してみると
富士康の場合
CHAM(本田技研の100%出資の部品会社)の場合
広州電装(南沙)の場合
現在 先述したように、『民工荒』と言うことが最近言われている。「荒」と言うのは、暴れるとか言う意味ではなく、不作・凶作という意味である。元々農業の用語であるが、農業の場合には、状況が変われば、時がたてば良くなるのが普通である。しかし、民工の場合には、ますます激しくなる、長く続くであろう、と考えられる。一人っ子政策後の1980年代1990年代生まれの人が増えるとともに、労働人口が少なくなるのであろう。さらにその人たちは、教育程度が高く、自己主張の教育を受け、わがままに育ってきている。また、曾ての民工は、何年か沿岸部で出稼ぎをして農村へ帰る、と言うパターンであったが、最近では、農村へ帰りたがらない若者が増えている。都市部の物価の上昇も激しく、インターネットや携帯電話でいろいろな情報が入る、と言う環境であり、今後はますますその傾向が強くなるのではないだろうか。労働力確保が課題となりつつある。小生は、『安い労働力』を活用する、と言うことは決して言わなかったし、周りの人にも言わせなかった。『若い、優秀な労働力』を活用し、力を身につけてもらう、一人前に育てる と言うことを言い続けた。『この人から、もう学ぶものはない』と思われるようになればおしまいである。小生の周りにも、そのように思われた人(駐在者や支援者)がいたが、そのような人の周りは、労働問題に近い問題が頻発していた。コミュニケーションもしかりである。
やはり大事なことは、
日本マザー会社も、駐在員も以下のことを認識・考えるべきではないでしょうか?
記:川崎 拓央(2010-08-22) |