『アメリカ人が良い車をつくれる』

1.はじめに
 3ヶ月の英国での技術指導を終えて帰任すると、米国行きの辞令が待っていた。1981年夏から1986年秋までの5年間、米国オハイオ州で四輪工場建設、従業員の採用・訓練、生産立上がり、モデルチエンジ、合理化・工場拡張工事、品質改善運動等など、いつも変化に富んだ情況の中でアメリカ人と共に働く機会に恵まれ、始めは現地にホンダのやり方を持ち込み、次に現地の人たちに理解されるようになり、ついには現地の人たちによって改善される体制を造り上げ、結果として、「アメリカ人が良い車を作れる」という定評が得られた。ホンダの米国工場の解説については沢山の刊行物があるが、ここでは現地工場建設チーム・四輪溶接課・新機種プロジェクトに関係した体験の中からいくつかを紹介する。

2.工場進出のあゆみ
 「需要のあるところで生産する」という企業理念のもと、米国において二輪車・四輪車・芝刈り機・エンジンの現地生産をホンダは進めてきた。まず二輪工場建設の実績から、州政府及び地元との付き合い、現地建設業者の選定、現地人の採用と訓練、生産と物流、現地調達メーカーの育成.....。小規模ながら一通りの経験を積んでから、予定の四輪工場建設の決断が下された。工場建設フィージビリティスタディに続いて、U4プロジェクト(USA四輪工場建設プロジェクト)が編成され、現地チーム、日本チーム合わせて300名以上のエキスパートが参画した。
1977年 9月 米国オハイオ州に2輪工場の建設を発表
1979年 9月 2輪工場の量産開始
1980年 1月 米国で四輪車の生産を発表
1981年 2月 四輪工場建設の着工
1982年11月 四輪工場の量産開始
1984年 1月 四輪工場拡張を発表 600台/日→1200台/日
1984年 6月 カナダに四輪工場の建設を発表
1985年 7月 エンジン工場の量産開始
1986年 7月 四輪工場拡張工事の完了
1986年11月 カナダ四輪工場の量産開始

3.四輪工場の建設
 ホンダの海外工場としては三十数番目の工場建設であるが、その規模と工事期間の長さにおいて、最大の工事が米国四輪工場建設であった。鍬入れ式から米国製ホンダアコード第一号車のラインオフまでの23ヶ月はそれこそ日米の知恵と熱意のぶつかり合いで、現地の土木建設工事システムに対して、日本式エンジニアリングをうまく重ね合わせることが出来た。
 その成功の要因として、次の項目があげられる。
@ 2輪工場建設のノウハウを使用出来たこと
A 現地の土木建設工事システムを尊重し、日本からの図面を現地で米国技術者と共に翻訳、アレンジし直した。
B 地元の協力を得られるように、地域環境保全、産業公害の防止、省エネルギーを重視した施設の導入。
C 地元建設工事関係業界と地元の建設工事労働者組合と協調出来たこと。
D 日本からの生産設備据付に対し、最終調整工事を日本人エキスパートが実施出来たこと。

 現地工場建設のポイントは、その目的を共有化するという国境を越えたチームワークにあり、現地建設作業者とホンダマンが各々のヘルメットに、“Team Honda” のワッペンを貼って連帯感を持って工事を推進した。

4.生産立上がりと訓練
 ホンダでよく使われている言葉の一つに、「品質は工程で造られる」というのがある。米国における生産現場での人造りは、まさにその通りで、幾つかの工程を経過した後に、検査員が白黒の判別をするのではなく、各工程が良い物を受け取り、決められた通り組付け、良い物を次の工程に払い出す。すなわち全員が組付員であり、全員が検査員である訳である。

 ホンダの米国四輪工場では、地域の未経験の労働者を採用し、2輪工場の経験者で日本のホンダの四輪工場で2ヶ月実習した従業員が中心になって、各課のカリキュラム・作業マニュアルに沿って新人の教育をスタートした。当初は日本から持ち込んだマニュアルを使って実施し始めたが、これでは米国従業員にとっては、従うだけで減点しか取れない.....と気ずき、彼らの手で自分の工程の作業マニュアル・品質管理ポイントを作り上げ、更にそれらを各工程の側に掲げるよう変更した。その結果として、作業中に気がついた不具合とか改善点を直ぐ上司に打ち上げ、その場で解決し、必要ならば作業マニュアルに項目を追加し改訂するという仕組みが出来た。オハイオの四輪工場の立上がりにおける至上命令は「生産の数ではなく、いかに良い品質の車を作るか」であった。第一号車のラインオフから日産300台の達成まで1年の年月をかけたのは、現地マネージメントがいかに「人造り」と「品質は工程で造られる」の習慣造りに細心の注意を払ったかを物語っている。

5.シンボリックマシン
 日本の工場にある普通の設備とか生産技術ではなく、創意工夫した、他に無いホンダのオリジナル商品と言うべき、革新的な設備・生産システムを構築し、オハイオに設置すること、これもホンダの社風の一つである。物真似をするな、違いを付けろ、出来る限り工定数を減らし集約化しろ.....。この思想がアソシエイト(ホンダ米国工場では従業員のことをこう呼んでいる)の共感を呼び、理解されて高品質な車体造りに役立ったと思われる。1986年に大河内賞を受賞した「四輪溶接ワンパックシステム」については、U4プロジェクト発足当時(1981年3月)、メンバー内で喧々諤々の議論が起った。四輪溶接課の中で車造りの中核となるメインASSY マシンのことで、当時としてはあまりに高集積・高密度型溶接機械で、品質を造り込む工程が集約されすぎて、1つ1つの工程の精度とか役割を現地人に教えることが出来ない、故障すれば大変だ.....などと尻込みをするメンバーも出てきた。結果としては、敢えてこのシステムを現地に設置し、その前工程あるサブCOMP部品、日本からの供給部品及び現地でプレスされた部品等などの生産設備、治具、検具、金型とそれぞれの工程の総点検により、品質のレベルアップが図られた。又それらと並行して、オハイオへ導入の一年前に、ホンダ鈴鹿製作所に設置された1号機の稼動データーが分析され、不具合対策等の反映がなされた。

 このすごい機械のおかげで、溶接組立て前の部品間の複合的品質問題などの解析が早期に実施され、オハイオ製の車が日本製に比べて同等か、より良くなった.....という結果をもたらしたのである。

 日本人が苦労して英語を話し、設備・道具・材料・品質・生産システムなどについて説明するよりも、一つのシンボリックマシンを開発し、現地に据付けることである。現地の人がそれを使い、故障したら自分たちで修理をし、改善をする。そして「これは自分の機械だ」と言ってくれる。その方がずっと効率的で早道でもあった。

6.新機種プロジェクト
 四輪車の海外生産工場にとって、それを失敗すると致命的なのが、タイムリーにモデルチエンジを実施出来るかどうかである。例えば日本で既にモデルが切り換わって、新モデルがどんどん現地に輸入され上陸しているのに、現地生産工場だけ旧モデルを作り続ける訳にはいかない。

 ホンダの誇るモデルチエンジの伝統に、決してラインを止めない、従業員を設備更新工事のためにレイオフしない.....というのがある。米国他社が新モデルのたびに2〜3ヶ月のレイオフを実施している事実に対して、特筆すべきことである。同じ建物の中で一方では現モデル(1985アコード)の生産を続け、他方ではもう一本のラインの増設工事をやりながら、ホンダの主力モデルである1985アコードから1986アコードへのフルモデルチエンジ(全ての部品が旧から新へ切換えられる)を実施すると言う2大プロジェクトが競合する大工事が1984年春から1985年秋にかけて、ラインストップ無しに実施された。

 1985年9月の第三木曜日、最後の1985アコードが組立ラインから姿を消すと同時に、輝かしい1986新アコードでラインが埋められた。米国で一夜にしてフルモデルチエンジが成し遂げられたという自動車会社はない。

 オハイオ工場成長の過程として、米国人の参加のもとで、新機種プロジエクトチームを編成することは重要なテーマであった。主力機種のモデルチエンジいうことで、背水の陣をしき遮二無二行動しようとする、意気込みを表すために、プロジエクトのニックネームを「猛牛」、英語でBULLと名付けた。名は体を表すの通り、米国アソシエイトにも良く理解され、各課から日米1人ずつメンバーが選出されて、積極的な活動が展開された。

 主な活動は
@ 現モデルの不具合・改善点のリストアップ
A 日本の展開日程に呼応した現地日程計画の作成
B 日本での量産試作段階への現地人の派遣と訓練
C 作業マニュアル、治具・検具の取り扱い説明書の作成
D 現地での設備更新、新治具・新設備トライ時の不具合まとめと定例パート会議の開催。
E 現地での量産試作から量産立上がりまでの不具合経歴の集積、再発防止と車の造り込み

7.全員参加の定着化
 日本の工場で実施されている、改善提案制度、NHサークル(New Honda QCサークル)が現地工場にも導入され、従業員の活性化が図られている。改善提案については1986年度は最初の3ヶ月で450件の提案があり、約半数が採用実施された。NHサークルの方は代表グループを日本で秋に開催される世界大会に参加させようと、従業員の1/4 がサークルに加わり活況を呈している。上記に加えオハイオ独自のものに、SPEAK−OUTシステムがある。これはフル生産の中で、そろそろ出始めた個々の工程の不具合の潜在化防止で、どんな問題でも所定の提案用紙に記入し、牛の絵が描かれた箱に投函すれば2日以内に、上司かBULLプロジェクトのエキスパートが解決し、本人に連絡しますよ!というシステムである。1986年1月〜8月で約1000通、その99%が仕事中心で品質・作業性・安全・コミュニケーション等であった。

 “米国におけるホンダの四輪工場ホンダ・オブ・アメリカ社の成功は、デザインと生産技術、効率的な工場レイアウト、部品の高品質などにも由来しているが、何よりも大きい要因は「従業員の生産性」である。この高い生産性は、ホンダが存在し続けるのも、自分たちの仕事が確保出来るのも、生産性の向上いかんにかかっていることを従業員が認識しているばかりでなく、そのことを会社から信頼されているからだ。この互恵平等の考え方は、駐車場は誰でも好きな所を選べる、皆が同じユニフオームを着ている、同じキャフエテリアで食事をする、互いにフアーストネームで呼び合っている、というような単純なことにも現れている。”.....と工場を取材した米国人記者がワシントン・マンスリー誌1986年8月号で述べているので紹介する。

8.おわりに
 ホンダの10年にわたる北米における企業活動の一端を紹介したが、全編を通じてホンダ臭さが蔓延した事をここでお詫びします。しかしながら日本から海外に進出する際に、一番注意をしなければならない教訓の一つに「現地に喜ばれる」というのがある。本当にその通りで、創業者の本田宗一郎氏が現在の工場設置場所選定の理由を訊ねられた時、現地の報道陣に「神の思し召しで.....」 と答えた。その細心の相手に対する思いやり、誠心誠意が10年前の米国現地工場のスタートだったのである。

<<精密工学会誌1988年1月号>>記:上村 建士