久米相談役講演「科学技術における創出経験」

 ●「布教じゃございません」
 今日は題名が「科学技術における創出経験」ということになっておりますけれども、そんな立派なもんじゃございません。いち製造業のなかで、技術者として会得した創造性ということについて、自分なりに探り出していきたい。そんなことを、少しお話ししたいと思います。

 実は、お断りがふたつあります。創造性ということについてお話しするわけですが、べつに結論が出ているわけではなく、中間報告です。ひとつ大変困ったことがあり、それは創造性ということについて考えていくと、言葉に表現できないものを話さなければならない。根本的な問題を抱えているわけです。無理して言葉で表現したら、だいたいこんなもんです、というふうにお受け取りいただきたいと思います。

 それから、第二のお断りですけれど、だんだん話が仏教のほうに化けちゃいます。「なに、仏教? そんなめんどくさいもの聞きにきたんじゃない」と拒否反応を示す方もいらっしゃいます。 お断りしておりますが、私は仏教信者ではありません。ここで、「みなさん、仏教を信仰しましょう」と布教するつもりはさらさらございません。

 仏教哲学を題材にはしているが、宗教の話をしたいわけではない。たしかに、仏教は面倒くさいものです。抹香臭くて、古臭くて、面白くなくて??しかし、ひょっとすると21世紀の文明になにか示唆するものがあるかもしれない、と私は思うわけでして。 それで、敢えて退屈なお話を申し上げるわけです。とにかく、我慢して聞いてください。

 ところで、「とにかく」というのも「我慢」というのも、ともに仏教用語なのです。「兎に角」はうさぎに角があると勝手に思い込んでしまうこと、「我慢」というのはもともと、「我への思い上がり」という意味。日本語の中にはそういう仏教文化の中で生まれた言葉がいろいろ使われております。たとえば「有頂天」なんてのは仏様が住んでいるという至高の世界の名称ですし、「億劫」の「劫」というのは時間の単位です。「有耶無耶」は非常に難しい哲学用語で、これは「有か、無か」を議論していることをさすわけです。これらはほんの一例ですが、我々の頭の中にも意外に仏教文化というのは染み込んでいるんです、ということをご紹介しておきたいと思います。

 さて、本題の「創造とは」ですが、せっかくですから、ちょっと浮世ばなれして、神々の天地創造を考えてみましょう。 いったいありゃどういうことなんだろうということに触れてみたいと思います。

 旧約聖書の創世記のスタートのところに出ている言葉。「はじめに神は天と地を創造された」、三番目に「神は光あれといわれた、その光を見てこんどは光と闇を分け、それで昼と夜と命名した」こんなふうに7日間、いろんなものをつくっている話が出てまいります。じつはこれ、清水博先生と一緒に「場とシントピー」という研究をやっているミュンヘン大学のペッペルさんが先日、日本にいらっしゃって持ち出した話のひとつでした。ペッペル博士によると、この天地創造の物語には、人間の知識の形態が、そのままよく現れている、と。その形態とは、彼に言わせると、つぎの3つです。

 ひとつは概念的知識ですね、「名付ける」とか「言う」とか言語で表す知識というものがあります。

 ふたつ目は、行動的知識、「行なう」ことに関連するものです。多分、自転車に乗るなんていうのはこれだと思います。

 それから、最後に具象的知識、「認識する」「見る」、まあこんなことです。彼によると、聖書にはこれが端的に出ておると。

 いまの最近の脳科学からみても、知識にはこうした3つの形態があることが再発見されている。そして、現在の一番の問題は、「概念的知識」を追っかけるのに懸命になって、あとのふたつがどうもバランスを欠いてますね?というのが、彼の言い分であります。で、私はここにもうひとつ、見方があると思います。それは、「概念的知識」ということですけれども??。先ほどの創世記を見ますと、三番目に「神は光あれといった。 そうすると光があった」、こういう文脈になっております。これは、言葉が存在を規定するというプロセスになっている。そのあとも、「光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた」とある。つまり、夜も昼も、名づけたから存在するんだ、こういうロジックになってくるわけであります。

 ●分別知と無分別知
 それがそのまま真実かどうかは別にしまして、言葉が存在を規定するとか、あるいは言葉が存在を表現できるかということについては、西洋的な文明では、あまり疑っていないようでございます。この西洋的な考え方から出た科学的思考というヤツも、言語についてあまり疑いを抱いてないんじゃないでしょうか。科学の真理とか、法則とかいいます。あれは、なにを対象としても言葉で表現できないことは科学にならない。いったい言葉というのが存在の様相というものを全部表現できるんだろうか、と少し疑問に思うところがあるわけであります。これは、私だけじゃありませんで、じつは二千年から千五百年くらい前に、数百年かけて、言葉は本当の存在の様相を表現していない、つまり虚妄でしかない、ということを言い出した人々がいます。 それが大乗仏教徒たちなんです。

 図1は私が勝手に書いたのですが、「夜と昼がある」というのは「夜」という言葉をもって命名された存在です。 これは仏さんじゃ、「まったく嘘だ」という。言語が何だ、そんな言語にたよるなということです。 闇と光がある、と分けるから夜と昼ができるんですけれども、そんなものを分ける知恵というのはおかしい、というのが仏さんの言い分です。認識というのもありますけど、これは直接認識だと。いろんなものを考えて認識するという認識じゃないよと、直接認識がほんとだと。じゃあ、いったいその奥にあるものはなんだろう。いったい、その根ってなんだ? というとそんなものは仮の存在だ、そういうふうにあるように見えているだけだというのが仏さんの言い分でございまして。さらにですね、それから奥にいくとようやく、あ、そうか、と真理に気がつく。

 これが「般若」というんですけど、それをどんどん推し進めていって、これ以上悟れないよというところまでいくと、仏さんになる。

 その奥にいくと「空」といってなんだかわからないものになってしまう。聖書でいくと「闇」の状態ですね。 旧約聖書のような西洋的な考えとは、まったく逆のルートをたどって真理に到達するわけです。

 いま、私がここでいいたいのはですね、これが本当か、どっちがいいかとかは知りません。しかし、私がなにか創造した、つくったという経験から考えると、ものをなにか創り出す、というときの人間の頭のはたらきというのは、どうも両方が巡回しているようだ。その、「分別知」と書いてありますけれど、あっちの、光から来るほうですね、これからずうっと戻ってきて、最後にこっちに戻ってくる。まったく自分でも意識しないような、こういうはたらきがある。一回空へ戻って、それからあと、ぱっとなにかが出てくる。

 ちょうど、超越的存在が「光あれ」というところですけれども、あれが「ひらめき」という現象だと思うんですが、どうも、そういうようなことをやっているようだ。というのが、私の経験からの勝手な言い分であります。もちろん、そんな深遠な空までいきません。ごく、日常的な意味での空のところで循環しながら、なにかできている、というふうな感じを抱くわけであります。 たいへん、変な話になって申しわけありません。もうちょっと、日常のことにもどって、このへんのことを考えてみたいと思います。

 今度は、天才による創造。我々の日常生活の中に入り込んでいる創造力を見てみます。たとえば、ピカソのゲルニカ、ロダンの考える人とか、数えればきりがないほど出てくる。ほかにも、まだ、いろいろあると思いますが、これは、ひとつ、いままでに世の中になかった、しかも人にとってたいへん価値のあるものが創り出された、というふうにまとめることができると思います。

 芸術だけでなく、科学の世界にしても、たとえばアインシュタインの相対性原理。これも、アインシュタインという天才が一所懸命考えて、それで、今まで世の中になかった、新しいものを、ものというより情報ですね、情報を創り出した、ということになるかと思います。

 ひとつ、こういう疑問を出してみます。ピカソにしてもアインシュタインにしてもですね、彼らはなにか創り出すというときに、他人に向かって、「おまえこうやってくれ」とか、「あの人にこうやってくれ」とか、そうやって指図して、それで他人が一所懸命なにかやって、こういう絵ができたか、というと、どうもそうではないようですね。

 アインシュタインにしても、科学法則は発見したけれども、これは他人に向かって「おまえ研究してこうやれ」と言って発見したわけじゃないようです。

 それじゃですね、彼らにいったい、あんたがたどうやって創ったのか、ちょっと教えてくださいといっても、まず絶対に教えてくれないと思います。言いようがないんですね。 それじゃってんで、横にくっついていて、「いまなにを思ってる?」「絵筆を持つときにどう持ったから、こうなるんだ」と逐一見ていても、こんどは「そんなことやられちゃ創造できないよ」と多分、はっきり言われてしまうだけでしょう。ということで、なにか創り出すときのこころのはたらきっていうのは、結局、どうも人から外へ出ることはないし、他人が推察するっていうのは非常に難しいようであります。

 じつは、こんな天才の創造でなくって、我々の企業でも、だいたい、そういうものなんです。「企業での創造」というとたいへんいかめしい話になりますけれども、たとえば新規機種、新しい商品をつくるとか、新しいイベントをやる。これはいままでになかった新しいものを創り出さなければいかんわけです。やっぱり、創造の一種なんです。それをどうやってつくってるかということになる。 ただ、ここでひとつピカソやアインシュタインとちょっと違うのは、企業じゃ、ひとりじゃやりません。ひとりでやれるっていう時もありますけれど、それはごく分野の小さい時で??。だいたいは、いろんな分野の人がかなりの数集まって、いっしょになって、なにかを協力してつくりあげようとする。そういうやり方をとるわけです。

 ●「ひらめき」を他人に伝えられるか?
 本田技研にしましても、創成期はだいたいこんな調子でやってたんですね。社長の本田宗一郎さんひとりで頑張って、あとは、なんかわけもわからずついてったら、なんかできちゃった。だいたいこんなもんです。ところが、これがちょっと大きくなると、どういうことになるかといいますと??。本田さんがいくら天才で頑張っても、どうにもならなくなった。これはあの宗一郎さんの悪口言ってるわけじゃないんです。これは、宗一郎さんのような天才的な人でも、ちょっと分野を広げると、人間の限度っていうものがありますから。全体をカバーできなくなるということです。どうしても、まわりの人にいろいろ助けてもらって、なにかつくり出さなきゃいけない、とこういう事態がでてくるわけです。

 ところが、じゃあひとりの人が「おまえあれやれ、こうやれ」とまるでロボットをつかうように細かい指示をしたらできるかというと、これはなかなかできないんです。大事なことは、みんな集まった人たちが、それぞれ自分の考えで、自分のところを自主的に問題解決してなにかつくり上げていく、この総合がここでいう創造ということになるわけです。そういうことで、企業でいっしょに仕事をするというのはじつは企業にとっては生命力のポイントになるわけで、非常に大事なことになります。

 ちょっと話がそれちゃったんですけど、じゃあ、その時に我々はなにを創造しているんだ、ということを考えてみたいと思います。じつはこれ、みんなで創っているというわけですから、他人にわかる情報を出さなきゃいけないわけです。たとえば新しい車をつくる。これはやっぱり図面とか、あるいは仕様書で、人にわかる情報を自分たちが創り出さないといけない。どこかでそれをやらなきゃいけないわけです。ところが、それがどこから出てるかというと、これ再び、当事者の頭の中から出てるんです。よそから情報をもらってくる場合もあるかもしれませんが、それを組み立てて、いろいろ加工して、新しい情報を創り出しているのは、だれかの頭の中です。

 その頭の中がいったいどうなっているんだろうということなんですけれど、そこを取り出すとなると、再びさっきのピカソに向かって「どうやってこういう絵書くんですか」という問いを発したのと同様に、結局、話をすることはできないですね。横から見てる人が「こうやって、こうやって、本田技研がこういう新機種つくったからこうなったんだ」、よく評論家の方がそんなことをお書きになることもありますが、ところが、自分で「じゃあおまえ、これどうやって新しい機種、考えついたの?」といってもこれはじつはよくわからないんです。

 私はこないだCVCCについて取材をされて、しつこくNHKの記者にやられまして、困っちゃったんですけど、これにはもう、「わからん」と。これ、「わからん」のは私だけかと思ったらですね、そうでもないんですね。数学の世界では天才といわれたガウスが、こんなことを言っています。「謎は、稲妻が光るようにしておのずから解決する。私自身は以前知っていたものや、これまでずっと試してきたものと、最後の成功を創り出したものの関係についてなど語ることもできない」。要するに、それまで一所懸命やってきたことですね、それが最後にぱっとひらめくんです。一所懸命やってきたことと、ひらめいたこととの関係なんかわからんよ、と彼はそう言っているわけです。これ、ほんとだと思うんですね。

 私たちも、いろいろ仲間でやってきた人に聞いたり、自分のことを思い出すんですが、だいたいそんな調子なんです。だから正直にいって、なにか創造するときは、自分の頭の中で理論、理屈、そんなものがはたらいて創出できているわけではどうもなさそうだ、ということは、いろんな例から言えると思います。しかも、それを外から聞いても知りようがない。しかし、そうは言っても、やっぱり、企業に限らず、なにか創り出していくっていうのは、生きていくことそのものです。皆さん方も生きていくためには、なにか創り出していかなければならない、情報でもなんでもいいです。それをどうやって創り出しているかというと、たいへん大事なことなんですが、じつは、科学的にも?? いまの科学ですよ、科学的に外から眺めても知りようがない、それが現状だと思います。そのへんについて、じゃあ、もう少し観点をかえて、どういうことかなあということを考えてみたいと思うわけです。

 ●科学的プラン作成の落とし穴
 ちょっと、ここで話は変わります。創造というのもひとつの行為です。創造に限らず、私たちがなにか行為をしようという時に、あんまりむつかしく考えないで、意識的にしろ、あるいは無意識的にしろ、上に掲げる三つの問いに答えることになっている、と言えるんじゃないでしょうか。

 たとえばですね、「ああ、もうこの話退屈だから、退席して帰ろう」と思ってらっしゃる方が退席したとします。そうすると、その方は、この三つの問いに答えていることになるわけです。なんのためにかというと、面白い話を聞くためにきたんだ。なんであるか、ちっとも話が面白くない。どうすべきか、退席すべきである。と、こういうふうになるわけです。で、まあ、普段の会話でもですね、これ簡単な話、「いったいなんなの?」と言ってるときは、2のなんであるか? を、「どうすんの?」と言ってるときは3のどうすべきか? を、難しく言えば問いかけているわけです。

 「なんのために?」は、みなさん聞きますよね、「なんで?」、そういうことです。そういう3つの問いで、我々はいつも行動していますね。これはですね、集団でなにかやろうというときにも、この三つの問いに順番に答えていきなさいという計画の立て方がある。「もう、今ごろそんなこと古いよ」とおっしゃるかもしれませんけれども、計画は三つに分けて立てなさいと。ひとつは構想計画、ひとつは課題計画、あとひとつは実施計画。構想計画というのは、目的に関することですね。だから、なんのためにということについて考える。おのずから考えは水平思考的になります。なんであるか? というのは状況がどうだとか、これがこうで、あれがこうだとか、そういう場のあり方を見極める、それが課題計画。どうすべきかというのは、そうだから、こういうふうに動けばいいという実施計画ですけれども。私がこれを勉強したのはたしか30年くらい前で、アメリカの空軍のコマンダースカレッジでも、計画の立て方というのは、こんな教え方をしていたように思います。

 これが集団の計画の立て方の典型例ですけれども。じゃあ、皆さん、科学的アプローチということでですね、最近はやりのTQM(Total quality management)、非常にあれは能率がいいんだということで、皆さん、よくおやりになっています。

 ●3つのサイクル? 科学的アプローチ
 これもPlan、Do、Check、Actionですか、最初にプランというのがありますね。そのプランをお立てになる。原理は、まず計画を立てる。それから、やってみる。その結果をチェックして、「なんのために?」というのにちゃんと適合しているかを見る。こういうことになるわけです。

 シェア30パーセント取ろうとやったのに、20パーセントしか取れなかった。じゃあ、なんで? ということになって、市場はどういう状況だ、反響はどうだ、ということで、また、なんであるか? に戻って、じゃあどうすべきか? もっと別な機種つくりましょうと、アクションにいって、それがまた繰り返される。これが、いわゆるTQMと称されるやり方です。

 これにも三つの問いというのが入ってきます。ただですね、ここでひとつ科学的アプローチというなかで非常に問題になってくるのがありまして、この「なんであるか」です。

 あの哲学者の上山春平さんの言葉をお借りしますと、「科学は、なんであるかという客観的な関心に基づく問いに、確実な回答を提出しようとする」たしかこんなことが書かれていました。要するに、皆さんよくご存じのように科学というのは、主体が客体にものを問うわけです。相手は客体です。自分のこころじゃない。で、そこにひとつ非常に大きな問題が出てくるようでありまして。さっきの、TQMのやり方、PDCAのサイクルで見ると、こんな回りかたをしていると言えると思います。 「なんのために?」がまず問い詰められる。次には「なんであるか?」というのが問い詰められる。それで「どうすべきか?」と決められ、やってみる。結果は、「なんのために?」と照合される。こういうことになります。

 この「なんであるか?」というのはですね、先ほどの科学でいうと、対象の「もの」にしかなりません。「こころ」なんてことにはならないわけです。たとえば、「おれはこれに満足したい」「気持ちよくなりたい」といったこころに関するものが出てきても、だいたいそんなものは、お客様満足度指数何パーセントとか、これがこういう条件で不快指数何パーセントというように「もの」を表現する数値に置き換えられてしまう。「こころ」ってのは消えるわけですね。こころの消えたなかで、このサイクルは回っているわけです。じつに能率がいいようですけれども、それがひとつ、たいへん問題があると思います。あまりややこしいことを言わずに、経験的に言いますと、このサイクルを一所懸命、科学的に回していると、やってる人たちは図2のようになります。

 ●急行列車とラプラスの悪魔
 急行列車に乗ってるやつはだいたい、なんにも考えてないんです。最後に行くところは、いわゆる決定論のラプラスの悪魔の口に飲み込まれて、最後はおしまい、と。だいたいこういうことになるはずなんですけれど。現実にはそうなっても気がつかないという人がたくさんおるようです。

 たとえば、この部屋ちょっと暑いからどうかしようと思ったとします。これをPDCAで回しますと、「暑いから、クーラーがそこにあるから、何度になったらスイッチを入れてください」「暑いから、庭に水をまいてください」、こんな話になります。たぶん、どうすべきかというのは「庭に水をまけ」とか、「クーラーのスイッチを入れろ」とか、そんなふうな話になる。ところが、「おまえやれ」「あれやれ」「これやれ」となると、「俺は一所懸命温度を見て、こうなったら、考えてスイッチを入れた」。ところが、まだ暑い。今度は庭に水をまいた。ところが、なかなか涼しくならない。一所懸命やってはいるんだけれども、どうもなんか変だな、よく見たら、隣の部屋が火事じゃないか、と。そう言っても、その人は、「俺の責任じゃないし、俺の考えることじゃない」と言ってすましているような状況が、出てきちゃった。まあ、そういうことで、必ずしもTQMが駄目とはいいませんけれど、非常に困った状況が最後に出てきますよ、ということを申し上げておきたいと思います。

 結局、科学的アプローチは、さっき申し上げたように、「こころ」という要素で参加できないんですね。じゃあ、ここで問いを変えてですね、こころの問題を見るために、「なんのために?」という問い方をやめて、「創造するために」どうすればいいか、というふうに直接問いかけてみます。そうするとですね。

 「創造するためにはどうすべきか」と問いかけられたら、答えようがない。なぜ答えようがないかというと、「なんであるからどうすべきか」という「なんであるか?」が抜けちゃってます。「なんである」というのはですね、その場合には、その「こころ」を問いかけてるんですけれど、いま申し上げたように、科学だけに頼っていると、科学はこころなんか相手にしてくれない。

 そういうことで、創出するためにどうすべきか、と聞いてみても、科学ではどうもまともな答えが返ってこないのであります。

 ●泥の中での主体的反省
 結局、いま言ったような、「創出するためにどうすべきか」というのはですね、「こころとはなんであるか?」ということを問わないといけないんですけど、それは返ってこない。

 また、さっき申し上げたように、いくら自分のこころが創出のときどうなったかを探ってみても、自分自身でもよくわかっていない。それじゃ、いったいどうすればこの問題わかるんだ、ということなんですけれど。

 これは非常に簡単な話で、人をばかにしたような話なんですが、答えは、「真実は実践にある」という話になってまいります。つまり、いろんな理屈こねてないでやってみろ、そうすりゃわかるよ、ということです。

 理屈言ってないで「なんのために、どうすべきか?」こんなものはいいかげんに考えておけばいいんです。やってみてから、「なんであったか?」そう考える。これが、「トライ・アンド・エラー」です。ここには論理はないんです。

 そういうことで、試行錯誤から答えが出てくるわけなんですけれども。 ただ、これをやるときに、反省の仕方、「なんであったか?」というときの反省の仕方ですね、これがたいへん問題になってまいります。

 難しくいくと、真理はふたつあるよ、という話になってまいります。私もよく覚えてないんですが、「客観的反省にとっては、真理は対象すなわち客体的なものとなるが」?? 「主観的な反省にとっては、真理は習得、内面性、主体性となる」というようなことをキェルケゴールが語っていたと思います。

 自分のこころの中にある真理と、対象にある真理、真理には二つの種類があるよ、とキェルケゴールはそんな表現をしているわけです。ちょっとわかりにくいので、もうちょっとわかりやすく例を話してみますと??。

 だいたいですね、考えずにいろいろやってみたら失敗するんです。これは当たり前です。問題は失敗したときの反省ですけれども、「あなた失敗しましたね、どうしてですか」と聞くと、たいていの人が、「あれはあの人がこんなこと言ったからだ」とか「あのときにあれがこうなってたから、あれがまずくてこうなっちゃった」「あれがああなってなきゃ、ちゃんとできたはずだ」と。皆さんだいたい、反省を、他に向けるんですね。これはウソじゃないんです。

 たしかに、客体的なものを見て、科学的にものを見たら、これが一見、真理のように見えるんです。じつは、これでは創造は出てこないんです。なにをやるかというと、さっき言ったように、主体=自分のこころの中に問いかけなきゃいけない。「いったいどうして俺は、こういうことをしちゃったんだろう」。それをどんどん深く追求していく。そこで初めて「あ、そうだ」ということが気がつくわけでありまして。

 難しいこと言ってるようですけれどもね、これは実例があるんです。私どもの会社でよく、レースが好きでやっています。アメリカのさる二輪のレーシングチームが、これアメリカ人のマネージャですけれども、負け続けてたんですね。ちっとも勝たない。さんざん苦労したあげくに、ようやく勝てるようになったんですが、勝つようになってからそのアメリカ人のマネージャが、つくづく述懐していました。

 チームにはドライバーやメカニックやエンジニアがいるんですけれども、負けてるうちは、お互いに「相手が悪い」って言うんですね。エンジニアは「俺はちゃんと設計したのに、あのメカニックがこういう整備したからこうなっちゃったんだ」とか、メカニックのほうは、「俺はちゃんと整備したけど、あのドライバーがあんな回りかたするからひっくり返るんだ」、みんな他人のせいにしてぐるぐる回ってるんです。こういうときは、勝てない。

 いつのまにか勝つようになって、はっと気がついたら、「いや、この前のレースは俺はここんとこがまずかったから、今度はこうやってみる」とメカニックが言う。ドライバーは「どうもあの回り方はこういう具合にまずかった、今度はこう回ってみる。今度はだいじょうぶだ」と言ってがんばる。エンジニアも同じこと。

 要するに「勝つ」ってことは、新しいものを持ってはじめて勝てるわけですから、なにかそこで「創出」したわけです。結局、そういうふうな主体的な反省から、創出が生まれる、というひとつの例だろうと、思います。仏さんはこれを、忍辱というんですけれど、要するに、恥をしのんで一所懸命こらえろ、と、こういうことなんです。

 一所懸命恥をしのびなさいと、仏さんもこういうことを言ってる。じつは私も、かつて失敗しかけたことがあって、私どもの創業者の一人藤沢武夫さんにひどく怒られたことがあります。2時間くらいお説教をくいましたけれども、そのときの怒り方はですね、「久米さん、あんたたちね、最近、なんか先進的だの未来だのってチャカチャカやってるけど、おまえさんたち先見る、先見るって言ってるけど、そんな先見たって未来はないよ」というんですね。「過去を見なさい」という。

 なんだろうなと思って聞いていたら、「過去を見るっていうとき、おまえたちはすぐ、前にやった、うまくやったことを思い出して、あのときこううまくやったから今度もこうしようってやる。それで間違えるんだ。いちばん大事なことは、おまえさんもずいぶん失敗したろう、思い出すのも嫌なことがいっぱいあったはずだ。それを逃げないで、こころの中の泥を全部さらけ出してみなさい。どんなことでもいい、不正確でもいいから、全部さらけ出してみろ。その中に、未来を開く鍵がきっとあるはずだよ」と言われまして、これは半信半疑でしたけれども? 本(『場と共創』NTT出版、2000年)にも書いてますが? ほんとにやってみたらそうだったという経験がございます。

 やっぱり大事なのは、「主体的反省」ということなんです。もうひとつここで申し上げておきますけれど、この主体的反省というのはどこから出るんだ。人の話を聞いて反省したってはじまらないですね。

 実際に創出なら創出という作業をやってみて、その場の泥の、実際の経験からの反省、これをやらないと、どうも、創出というのは出てこないのであります。

 そうすると、先ほどの「どうすべきか」ということについて、いろんな新しいものをつくろうとして努力している人たちがいます。そんな人たちに「どうすべきか」ということについての自分への反省、これを全部いろいろ重ねあわせてみると、なにか浮かび上がってくるんじゃないかと思うわけです。

これはほんとうに、そこになにか類似し、共通した法則が出てくるようであります。で、その法則のいちばんいいお手本というのが、結局、さっき申し上げた仏教であります。なんで仏教か? ということですけれども。これも、上山春平先生の言葉を借りますと、宗教は「どうすべきか?」という主体的な関心に基づく問いを出発点とする。

 要するに宗教ってのはですね、俺はどうすりゃいいんだという自分のこころの中への反省、この問いを出発点にしているわけですから??。さきほどの、創出の場合の反省とおんなじなんですね。ま、そういうことでありまして、その大乗仏教ということですけれど、あとでまたお話しますが、いろいろ唯識とかややこしい話が出てきますが、簡単に言いますとですね、仏教では、「世界の真理を悟るためにはどうすべきか?」というのが根本命題です。

 それでいろいろやるわけですけれど、「こうすべきだよ」といってるのが、経とか律とか、そういう形で出されています。それから「これは、こうすべきだよと言ってるけれども、それはどういうことであるか」ということを解説しているのが論ということで、仏教は経と律と論という三つで成り立っている。

だから、私の言ってるのはむしろ哲学の「論」のことですね。これは、彼らが「どうすべきか?」ということで実践した反省を積み重ねて、ひとつの論にまとめ上げていったものです。これがたいへん参考になりますよ、と申し上げたいわけです。

 だいたい、そんなことなんですけれども、もう少し話を具体的にして、「じゃあ、おまえさんたちいったいどういうことを反省したのか、どういうやり方をやったのか、なにが出てきたのか」について触れたいと思います。

 ●創造を可能にする条件
 それでは、「どんな反省の仕方をしたの?」ということもありますので、反省の実例をまず簡単にご紹介します。

 じつは、あまり難しいことをやったわけじゃないんです。我々企業の場合、反省しやすいというのもあるんですけれど、それは先ほど言ったように、同じ目的をもった仕事に向かっていろんな人たちが共同して作業をしてます。いろんな人が集まっているわけですね。そこで創出にかかわった人がそれぞれ思い出をもっているわけです。ひとつの創出に向かっての思い出があるわけです。その人たちの思い出を、こころの向くまま自由に語ってもらう。こういうことができるわけです。

 要は、そんな辛苦をともにした人に集まってもらって、いつ、どんな場面で、なにを思っていたのか、かっこよく言えば自分の創出のこころの旅路ですね。これを思い出すままに不正確でもなんでもいいから、とにかくかざらずに、ありのままに語ってもらう。科学的な観点からいくと、それはたいへん主観的であり、不正確であり、ある一面しか見ていない。まるっきり、取り上げるに足りない情報ということになるんですけれども、しかし、複数の人たちのそんなふうな情報を重ねあわせていきますと、その創出に立ち向かっている人たちのこころの動きっていうのは、同じような動きがあるんだなあというのが、ぼんやりと浮かび上がってくるわけです。

 これは、私たち当事者の放談会ということで、お互いに言いたい放題させるわけです。その中からまあ、みんながそうだよなあ、とこれが大事なところなんですが、共感する話題を集めて、それを見つめる。「やっぱりそうか、俺もそう思っていたんだ」というふうな話題を集めて、見つめてみると、いろんなケースに共通する像が浮かび上がってくるわけです。それで、どんなものが出てきたかというのを、ここでちょっとご紹介します(表2)。

 たいへん簡単な話なんです。まあ、脳のはたらきですから、これは「知、情、意」ですか、脳でいえば大脳の新皮質と古皮質と、それから脳幹と。そんなふうなわけで、じつはどんなことが起こっていたのかを整理しますとですね。不思議なことに意欲ということで、危機感のもとでの利他意識と利己意識の共存というものが出てきます。

 いろいろ苦労した創出を振り返ってみますと、たいてい会社が危機的な状況になって「こりゃヤバいぞ」というときに、いい創出ができている。だいたい、うまくいったあとのモデルチェンジというのは、うまくいってないですね。はっきり言って、失敗してます。

 「大変だ!」ということになって、そのときはえらい思いをするわけですけれども、あのときなに思ってたの、ということを聞くと、ほとんどみんな「世のため、人のため、仲間のため」と言うんですね。まじめに言うんですよ。どうしてそんなことを思うのかというと、「このままじゃ会社潰れるからな」と、そういうことを言うわけです。

 それじゃあんたは自分がそこで一所懸命頑張れば、ちっとは給料が上がるとは思わなかったのかと聞くと、もちろん、そう思っている。その両方を持ってるときに、どうもいいものができてると。どうも、これは創出ってことと無関係じゃないようだと思われるわけです。これは、清水先生がよくおっしゃられますが、「自他非分離」ということですね。

 自他非分離という関係は後で説明しますけれども、そういう気持ちが出てこないと、ひらめきってやつはどうも出てこないようですね。そのいちばんもとになるところでは、利他と利己が一体化しちゃってる。こういう意欲が持たれたとき、これがどうも創出につながっている。

 それから二番目に、だいたい、創出なんてたいへんなんですね。ひどい苦労をします。「自分一人だけのことだったらとっくにあきらめてますよ」というのがみんなの率直な感想なんです。そうだろうな、と思いますけれど。それでもなにかやってるというのはどういうわけだ、というと、えらい思いをして大変なんですけれども、なにやら陽気にやってんですね。一見、非常に不真面目です。よくもいいかげんなことをやるなあと思いながら、まあ、なんとかならあってな調子でやっている。

 どうも、そうやらないとね、創出につながってこないんです。本人たちも、なかば意識してそうやっているという感じがします。いろいろ聞いてみると、「そうやらないと、落ち込んじゃったら、なにも出ませんよ」と、こんな話になるんですね。

 三番目はよく言われることですけれども、要するに、失敗、挫折、これを一所懸命経験する。話を聞いてるだけではだめですね、実際に自分がやってみて、自分が失敗して、ひどい目にあって、これでもうおしまいだと思う時に、いきなりひらめいてくると。

 それから、もうひとつなんですけれど、ひらめいたときですね、このときに自分を否定してます。自分の今までやってきたことは「あ、俺はこんなことに気がつかなかったんだ」「俺もばかだなあ」と思うのがほんとうのひらめきなんだ。自分がえらくてですね、こんなうまくやったからこの通りできた、なんていうのはありません。必ず自分を否定しているんです。

 それから、そういうものが出てくる共同体なんですけれども、これがルールがありまして、いちばん大事なのは、ひとつは共通の目的を持つこと。 「俺はあれを成し遂げたい」と、これが目的なんですが、「俺はこれをやっていい思いをしたい」なんて各人の目的がバラバラじゃ、だいたい仕事になっていかない。

 それから、異質の人が集まることです。同じような考えの人が集まった、仲良しクラブってやつですね、楽しいかもしれませんけれど、なにも出てきません。我々の経験でも、実際にやっているときは、なかばけんか腰、あわや殴り合いなんていうこともあるんですよ。本田さんよく叩きましたからね(笑)。そのくらい意見が食い違わないとだめなんですよ。我々も、「なに言ってんだ、おやじさん」っていうんで、かなりやりましたけれど。まあ、そういうことですね。

 それから、平等ということ。えらい人、そうじゃない人といいますけれど、あの、えらい人が座をしきっちゃったら、これはもう創造になりません。  現場でいちばん苦労している人がね、「えらい人がそういうことを言うけれども、こうなんじゃないですか」というところに意外に真理があるもので、そういうときの立場っていうのは、みんな平等のはずなんですね。

 えらいとか、えらくないとか、そういうことじゃないはずなんです。これがしっかりしてないと、なかなか、そういう創出ってのは出てこない。

 それからもうひとつ、これは当たり前のことで、書いてありませんけれども、「場の共通経験」。おんなじ場で、やっぱり、広い経験を共有しているということがないと、なかなか、共同体の創出ってのは難しいようでありまして。

 我々の場合を振り返ってみると、以上のような条件を満たすと、だいたいうまくいくようになるということであります。

 ●大乗仏教に見つけた創造のヒント
 そうするとこれはですね、ホンダという企業だけの特殊な話で、よそは違うということもありうると思います。ただ、これを敢えて皆様にご紹介するのはですね。実際にこういうことがあったという体験から、いっさいの推論を捨てて、他に似たようなケースがないかなと思って、探してみたわけです。で、ここでも論理の悪口言うんですけれども、私自身も経験あるんですが、なにがなんだかわからないときは、理屈自体がだめなんです。

 推理から始めると、必ず間違えます。これはやってみればわかるんです。だいたい、車なんてよくクレームが起きますね。そのクレームの原因を探そうというときに、最初に推理したらまず間違える。直らないです。

 まず、ありのままを見てですね、その中から類似した項目をずうっと集めるんです。その中から、いろんな関係を拾い出す、というやり方じゃないとほんとの原因は出てきません。

 それと同じことで、理屈抜きの類似例というのはあるかということで探してみたんですが、これが驚いたことには、先ほど言ったように大乗仏教の修行論だった。これは自分でも驚きましたけれど、先ほど、仏教との関係でいろいろお話ししましたけれど、あれは、じつはあとでつけた理屈でありまして、最初は偶然に見つかったんです。見つかってから、いろいろ突っ込んでいくと、要するに仏教というのはこういうもんだということになるわけです。

 仏教といっても広いのですが、私の言っている仏教は、だいたい今から二千年から千五百年くらい前に体系化された西北インドの大乗仏教です。この大乗仏教がよくあてはまるということを申し上げておきたいと思います。

 大乗仏教というのはですね、結局は他人も自分も救われるために、悟りの世界に入るにはどうするかという、修行の方法を説くわけですけれども。その方法論がまったくこれと同じですよということです。

 大乗仏教に「菩薩道」という言葉がありますけれども、まさに苦しんでいる人たちのために自分も助かりたい、他人も助けたいと思って、一所懸命真理の道へいく人を菩薩という。ですからこの表(前ページ)の真ん中の欄にあるのとまったく同じです。

 その菩薩が悟りをひらくためにはどうすればいいのということなんですけれども、自利、利他のつぎの二番目によく言われることですが、「苦楽中道」という話が出てきます。これも、皆さん聞かれたことがあると思いますが、お釈迦さまがさんざん苦労して苦行したけれどもなんにも得られなかった。がっくりしているところへ、スジャータという乙女が通りかかってミルク粥を差し上げた。ほっとしたところで、初めて悟りに出た。

 これは、お釈迦さまも苦労しているばかりじゃ駄目なんだ。楽もしなきゃいけない。そんな話がありますけれども。要するに、苦しんでるだけじゃ駄目なんです。暗くなっちゃったら、これ仏教語で棔沈といいますけれども、暗く沈んじゃったら悟りの道は開けませんよ、と。

 ほんとに、「覚」になる前というのは非常に軽々とした安らかなこころ持ちになる。そうじゃなかったら出てこないと。例えていうとですね、「蜘蛛のようになれ」といいます。いろんな論理の道を張り巡らしても、その上を自由自在に駆け巡るような心境にならないと悟りっていうのは出ないよと。お蚕になっちゃったらだめだと。自分で一所懸命論理の道を張り巡らしても、自分でそれに閉じこもっちゃったら、これはあかんと。

 仏さんはこういうわけです。おんなじことですね。じゃあ、どうすりゃいいの? というと、修行の道は「六波羅密」ということで、六つの段階があるからこれを一所懸命やりなさい、ということです。

 最初に「布施」ということですけれど、これはまず他人に尽くしなさいということなんです。利他のこころですね。もうちょっと講釈をやりますと、これは「財施、法施、無畏施」といいまして三つあるんですけれど、ひとつは財物を困っている他人に差し上げなさい。

 二番目は真理に向かう方法を人に与えなさい。それから、無畏施というのは恐れている人を恐れないようにしてあげなさい。こういうことをやって、まず、ひたすら他人のために尽くせと。それも、「他人のためにしてる」というこころがなくなるまでやるというのが仏さんのこころで、これがすべての根本であります。

 一番の菩薩道の話と、同じですね。これがないと話にならんよ、とこういうわけです。それから、自分は「持戒」、これは、場所の限定みたいなものです。やっていいことと悪いことがあるよ。そのやっていけないことは、やっぱりやらないようにしよう。仏さんでいうとですね、盗むなとか犯すな、殺すなということなんです。

 三番目には忍辱で恥を忍べと。いろんな修行をしてなんとか悟りの道にいこうということで、いろんな行をやって失敗するんですけど、そこで苦しいことがある、恥ずかしいことがある、それをみんな我慢しろ、ひたすら我慢して、四番目に「精進」。それでもとにかく、くじけたり後退したりしないで一所懸命やんなさい。「退屈」という言葉がありますね、あの語源はこの精進からでているんです。

 だいたい普通の修行僧は、ここらになりますと、あまりにも悟りの道がたいへんなんで、屈して、退くというのを、退屈というんです。語源は、そういうことになります。要するに、頑張れということですね。

 そうすると、最後に出てくるのが「禅定」という心情であると。ここが大事なところなんですけれど、禅定というのは坊さんがやってるあの禅ですね。ああいうことなんですけれども、ここで一番大事なのは、べつに、坐って禅定をやらんでも、「心一境性」といいまして、「心と対象がひとつになる」というこころ持ちになるように、がんばんなさい、と。

 最後にはそうなるよと、こういうわけです。客体と主体がなくなるわけです。ここらへんがまことに難しい話で、これを言葉で説明しようとしてもですね。説明しようがないんです。しかし仏さんはそう言って頑張ってるんですけれど。

 あの、ちょっと考えてみてください。利他・利己主義というのも、ひとつの心一境性ですね。他人と自分の区別がなくなっちゃう。それから、では対象に対してどうなるか、ということなんですけれど、これは西洋人でもですね、こういうことを言ってる人がいます。

 「創造者は自分の創造物と、独特のかかわり方をしている」と。「まず第一に、創造者は創造物を自分の一部としている」ですか。西洋人でさえも、創造者っていうのはですね、対象と自分に区別がなくなってくるという心境がどうもあるようです。そこで初めて創造ができる。こういうことを言われてるようです。

 要するに、こういう調子でやってると、最後にそうなるっていうわけです。最後の智慧とか般若っていうのは、それが「わかった!」とひらめくところなんです。そりゃ「わかった!」っていうのを説明しようと思っても、わからせようがない、自分で悟ることなんだ。これを仏さんの言葉で--だんだん坊さんみたいになってきちゃった(笑)--「自内証」といいます。つまり、般若は自内証であるといいます。

 要するに、人に教えられて言葉で悟ることじゃなくて、「自分の中で悟る」ということですよと?? このようにやってると、きりがありません。どんどんやってると、一週間でもしゃべってますからこのへんにしますけれども、ただここで、根幹はよく似てるねということなんですけど、この大乗仏教に、中核になってるコアがあってですね、それは中観派っていうのと、もうひとつ唯識派というのがあります。

 唯識派っていうのが、「世界はただ識のみで成り立つ」と難しいことをいう学派ですけれど、この唯識派でなにが言われてるかっていうと、こういう体験から、こころの構造ってのはこういうふうになってるよというふうに、こころの構造を言葉にしていろいろ教えてくれてるわけです。これは科学的にいうとですね、「そんなものおかしいよ」ということになると思うんですけれども、意外とこの「こころの構造」っていうのも当たってるなと思います。ただ、これをここで説明しようとすると、たいへんなんです。

 だいたいが、坊さんの言葉で「唯識三年、倶舎八年」といいます。あの、唯識のまえにアビダルマコーシャという難しいお経があるんですけれど、それを習得するのに八年かかった、それやってから唯識やって、なんとかわかるのに三年かかる。それしゃべろうっていうんですから無理な話なんですけれども。言わんとすることはですね、どうも人のこころっていうのはこういう構造になってるよと、そう言ってるんです。

 それは修業という体験をベースに言ってるんです。しかもいいかげんな言い方してるんじゃなくて、かなり難しい存在論、あるいは認識論であるとか、言語論であるとか、そういうものをベースにして、こういう話になってるわけです。

 じつはこないだですね、脳科学の松本元先生にちょっと唯識の話を申し上げたら、「よく言えてる」っていうんですね。「千数百年前の仏教は、脳の構造知ってるぞ」と。??というわけで、唯識論っていうのは、まるっきりおかしなもんじゃないよ、というふうに思うんです。

 ただ、ごく簡単にこんなもんだという紹介をしておきますと、だいたいこうということですね。図3の★印のラインから先がこころの中だと思ってください。ここからは外境。それで、唯識というやり方はですね、外境をまず「こんなものはない」といって、だんだん、だんだんこころの奥へと否定していって、最後に残ってるのはここだというふうに考えていきます。そんななかで、こころの構造が、こうなってるよというのが図4であります。これもちょっと簡単に説明しておきましょうかね。

 一番目は五蘊といいまして、これは小乗仏教のころから仏さんの考え方なんですけれども、「世の中は五つの要素で成り立ってる」ということです。それで、「色、受、想、行、識」っていうんですけれども、「色」っていうのは、現象世界全部ですね。ものの世界全部を「色」のひとことで置き換えている。で、こころの中っていうのは、「受、想、行、識」と、ごく簡単にいうと、ここにあるように、「センサー、プロセッサー、アクチュエーター、メモリー」だと思えばいいです。

 要するに、コンピュータの要素がもうこういうふうに、ちゃんとわかっておったと言ってもいいんじゃないかと思いますが。この「受、想、行、識」というのをもうちょっと分解していくと、図4の下のようになります。で、色をべつにすると、こころにもいろいろあってですね、眼識とか耳識とか鼻識とか、これは目とか口とか鼻の感覚器官です。意識というものがあって、その奥に末那識と阿頼耶識とある。意識ってのはいちばん我々が使っている、いわゆる表層意識がそれに属します。末那識ってのは、自分が「俺が、俺が」と思っている意識です。その奥の深層心理が阿頼耶識と。ここに、自分のやってきたことをずっとメモリーしてる深層意識があるぞ、と。こういうことなんですけれど。

 まあ、これもやってるときりがありませんから、このくらいにしときましょう。こういう構造に成り立ってるというんですけれど、こういう構造の中でですね、いったいなにが出てくるかというと、最後に出てくるのが、先ほどからちらちら出てきてますけれども、「知」というのがですね、「分別知」と「無分別知」とふたつある。

 分別知というのは皆さんよくお使いになってる、まさに皆さんが意識している世界そのものです。言葉をともなった意識です。で、いまの言葉でいう「明在知」ともいえるかと思います。仏さんにいわせるとですね、これが要するに間違いのもとだと。本当はその奥に無分別知というのがある。これは普段みんな気がついていない。あんまり能力を発揮していないんだけれども、言葉じゃないんだっていうんですね。それで、ここに「主観」と書いてありますけれども、もうちょっといいますと、「客観と主観のない知」だと、「主客一元化した知」だという言い方をします。

 で、悟るってのはどういうことかというと、明在知を消しちゃって(図5)、向こうの暗在知をどんどん、どんどん発達させる。そうすると、最後に「空」というのが分かるよと。こういう言い方をするわけです。なんか変なものだなあと思われるかもしれません。

 しかし、今までの創出体験を見てますとね、どうも、図5のAとBがいつもぐるぐる入れ替わって巡回してるなあと、この暗在知がなにかを見つけて、それから明在知へぽっと出ております。そこで言語になってから、とたんにひらめきが起こっておる、と、だいたいそういうふうに言えるんじゃないかと思うわけです。

 仏教の話ばっかりしてるとなんですから、これと非常に似た話をひとつしておきましょう。ポアンカレという数学者がいます。彼がですね、数学の新しいなにかを発見した時に、いったいどういうふうにやって出てきたんだ、というのをかなり詳しく説明しています。それから、創出ってのはこういうふうに出てくるよと、いうのが出てきますけれども、だいたいこんなことを言っています。

 ●ポアンカレによる創出の構造
 原理的には図6(次ページ)にありますように、浸透=インフィルトレーションですね、それからインキュベーション、それからやはりリベレーションですか。この啓示というところがまさにひらめきであり、その前のインキュベーション。

 これどうも調べてみると、やっぱり暗在知です。ポアンカレは「無意識的活動」と言っています。浸透というのはその前の、意識的な活動、いわゆる明在知のはたらきです。検証というのも、明在知ですね。ぱっとひらめいたあとに、これをずうっと展開していく意識的なはたらきと。創出というのはこういうふうに起こっているよ、ということを、西洋人も言っているようであります。

 これも先ほどの六波羅密のプロセスとまったく同じで、仏さんのいう分別知と無分別知との話とまったく同じです。だんだん、狐につままれたような話になってきたかもしれませんけれど、本当だよというのをもうひとつだけ、申し上げておきます。

 じつはこれをですね、もう少し外から見て、こころの中ってのが推測しやすい事例はないかと思って探したところ、いちばん推測しやすいのはクラシックな海戦ですね。軍艦同士が弾を撃ち合う戦争。あれのなかによく出てきます。

 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、明治37?38年の日露戦争のときに、対馬沖で東郷平八郎率いる日本連合艦隊がバルチック艦隊を抑えて決定的に勝利をおさめた。
 あのときに、「丁字戦法」という日本海軍独特の戦法がありまして、それを創出して勝ったんだと言われています。
 いったい丁字戦法なるものがどうして創出されたかということをずっと追ってみますと、先ほど出てきた六波羅密と同じパターンになっています。

 嘘だと思ったらですね、本になっています(吉田恵吾『創出の航跡』すゞさわ書店、2000年)ので、興味のある方はご覧になってください。日露戦争の話の他にも、まだ例があるんです。どんどん出てくるんですね。

 まだこれよく勉強してないんですが、もうひとつ、非常にいい例かなあと思うのは、この本です(B.エドワーズ『内なる画家の目』エルテ出版、1988年)。ベティ・エドワーズさんというのはカリフォルニア州立大学の美術の先生なんですが、その人がですね、写実画を学生に教える時にどうやって教えるんだという、教え方をここに書いてあります。中身は、唯識論の示していることがみんな当てはまるようであります。彼女自身もかなり仏教の素養があるようで、日本独特の「間」とか「無」とか、そういう話が出てきます。典型的にどうなるかということをちょっとご紹介します。

 彼女のすごいところは、私はようやく「なんであるか?」というのがおぼろげながらつかめそうになってきたところなんですが、彼女は「なんであるか?」をつかんで、すでに「どうすべきか?」をやっている。この旗の絵がありますね(図7)。一番左の絵を見てください。学生さん、最初はこんな旗の絵しか描けなかったそうです。彼女がいまの唯識流の教え方をすると、右のような絵が三週間で描けるようになるということです。

 なにが邪魔してるかというとですね、こういう絵(左の写実的でない絵)しか描いていない時、これは言語が邪魔をしておると、はっきり言っています。こういう絵になるときはですね、ありのままを見るのが大事なんだ-彼女はそれは右脳の作用だといってますけれども-まさに、それは「無分別知」の作用そのものでありまして。もうちょっと、無分別知というのは脳幹や古皮質が入ってると思うんですけれど、彼女はそういう言い方をしています。で、現実に、こういうふうになってる。

 非常に興味深い、具体的な例も出てますから、この本は一度ご覧になってみるといいと思います。ものをありのままに見るためにはどうすればいいのか、たとえば絵だったらさかさまにして見ろと彼女は言っています。こうやって見てるから、すぐ「あれはなんだ、顔だ、鼻だ」とか思っちゃうんだと。さかさまにしたらぜんぜんわからない。ありのままを写すとちゃんと描けるよと。そんなふうに教えてくれてるようです。

 ●ものとこころは切り離せない
 だいぶいろいろお話してきましたけれども、今日出席していただいた清水先生は、科学の立場から、科学を超えた二領域論、場所論ということで展開されていると思うんですが、私はとてもそんなことはできないんで、ごく身近な経験から出発しています。

 あんまり推理するのをやめて、こういうものを集めてくるなかで、どうもやっぱり、こころの二領域というものが--清水先生の言い方とだいぶ違いますけれども--あるような気がします。たぶん、おんなじところへ行くんじゃないかなあと感じてるわけなんです。

 そう考えてみるとですね、科学だ、芸術だ、宗教だ、哲学だ、といいますが、お互いにどうもあんまり相性はよくないようです。それがどうしてなのか、不思議な思いがするわけです。科学はこころを切り離しちゃう。宗教というと、ものを切り離しちゃって、こころだけ見てる。ただ、創出ってことでみると、ものとこころを切り離せないんですね。

 私マンガ描いたんですけれども。(図9) ややこしいマンガですが、右と左でものの世界とこころの世界があって、おたがいに、科学はこころの中から外を見て、宗教は外からこころの中を見てああだこうだいってる。創出の世界ってのはそんなのわかりません。その中で、いろんなことが出てくるんですけれども。

 そういうことで哲学、科学、宗教と、そういう質の違ったものが、もっといっしょになってなにかやる必要があるんじゃないかなあと思います。どうも、科学は科学の世界、宗教は宗教。それぞれ別の世界に住んでるようですけれども。

 こないだドイツに行きまして、あるドイツ人の女流作家の方からこんな話を聞きました。話はちょっと違ってきますが、「マトリョーシカの原則」というのがドイツにあるんだそうです。マトリョーシカってのはロシアの木彫り人形です。人形があって、ふたをとると中に小さい人形があって、そのふたをとるとさらに小さい人形が出てくる。ちょうどあの人形のようにですね、要するに我々の社会ってのは、世界からはじまって、国家、官庁、それから地域社会、家族、夫婦?とずっと階層になってますね。

 ところがその階層が全部、それぞれ壊れだしている。彼女はそういう話をしてました。それを一時間半くらいいろいろ話してくれたんですが、これは日本の社会でもそのまま起こっているよと。

 たとえば最近多発して問題になっている17歳の少年犯罪、それから年寄りは年寄りで人に知られずどこかでひそかに死んでいく。それから警察は、どうも中でいいかげんなことをやってる。官庁も然りということで、みんな己の世界で閉じこもって、その世界が崩れだしている。

 彼女は最近ドイツの夫婦の会話の平均時間をとったら、忙しすぎて一日4分にしかならなかった、とそう言ってるんですけれども。やっぱり、さっきの科学、宗教なんかと同じで、お互いに自分の中に閉じこもっちゃって、ほかのところは見て見ぬふり。「見て見ぬふり社会」になっちゃってるんじゃないでしょうか。彼女もそういうことを言っていました。

 最後に、彼女たちも非常に危機感を感じてまして、どうにかしなきゃしょうがないと思いつつ無力感にさいなまれ、それでもいまなにかしたいなということで、主張したいのは、「他への責任を果たしていこう」だと言っていました。

 たいへん平凡な話かもしれません。これは先ほどの「利他をはかる」ということなんですね。他人の利をはかる、これがスタートだろうと。そんなことを言っておったように思います。そうすると、「私は関係ないよ」といった無関係社会じゃなくなってくるでしょうと。これは「縁起を知る」ということです。

 彼女は最後に、たいへん印象的な言葉で締めくくってくれまして、これはダライ・ラマの言葉なんですけれども、「無限の原因と現象の、連鎖の動きを認識するなら、世界がひとつの生物であると認識するであろう」と語ってくれました。彼女が言ってたのは、やっぱりこういうことを考えていかなくちゃいかんなあ、という結論のようでありました。まさに、清水先生もそういうことをおっしゃっていると思います。

 「共同体の生命」というのがこれから非常に大事になってくる、そういうことをおっしゃってるように私は理解しておりますけれども。そういうことで、やはり先ほどの科学、宗教、芸術、いろいろあります。それぞれの世界に住んでた人たちがお互いの立場に立ちながら、いろんな垣根をはずして協力し合って新しいなにかを創出していく。

 そういうことをやらないと、21世紀の文明へと進化していかないんじゃないかなあと思うわけであります。勝手に言いたいことを言っちゃいましたが、ここにいらっしゃる皆さんは、もうすでにそういうことを考えて、行動を起こされている方々ばかりだろうと私は思っている次第であります。

 最後に、「場のアカデミー」のますますの発展、これを祈りまして終わりにしたいと思います。長時間ありがとうございました。
 【出典:「場と共創」,第5号 科学技術における創出経験 より 】
 (注)文中の”図”は容量が大きいため掲載せず。
    希望の方にはメールで送ります。

講演:久米相談役(2000-09-18)