「タイ洪水をもたらした大雨は予測できていた」
東京大学 山形俊男教授に聞く

 タイの洪水が長期化の様相を呈し、日本企業の工場が浸水して操業がストップするなど、産業界にも大きな影響を及ぼしている。

 この大洪水の原因として、バンコク周辺が平坦であるという地勢、さらに政府による人為的なミスなども提起されているが、やはり気になるのは、例年の1.5倍から2倍におよぶとされる降水量だろう。このような「異常気象」は、なぜ起きたのか。これからもたびたび起きるのだろうか。そしてそれは予測可能なのだろうか――。

 東京大学大学院理学系研究科長の山形俊男氏は、タイ政府によるダム開放の失敗などミスマネジメントも大きな要因としながら、インド洋から太平洋にかけての海の気象の影響が大きいと指摘する。

 「今年はインド洋にダイポールモード現象が起き、一方で太平洋ではラニーニャ現象が起きました。ダイポールモード現象が発生すると、インドシナ半島には大雨が降ります。ラニーニャ現象もこの地域に大雨をもたらすので、今回はそのダブルパンチを受け、大量の雨が降ったと考えることができるでしょう」



 ダイポールモード。インド洋で発生するため英語の「Indian Ocean Dipole」を略してIODとも呼ばれるこの現象は、1999年に山形氏らによって報告されたものである。大気と海洋の相互作用により発生する現象で、簡単にいうならインド洋の東部、インドネシア沖の海面水温が平年より下がり、反対にインド洋西部のアフリカ大陸沖で平年より上昇するというものだ。

 水温の上昇・低下というと、太平洋のエルニーニョ現象とラニーニャ現象がすぐに思い浮かぶことだろう。  エルニーニョ現象は太平洋の東部で水温が上がり、西部で下がる「東高西低」。ラニーニャ現象はその反対で、太平洋東部で水温が下がり、西部で上昇する「西高東低」。ともに、その発生には南半球側で南東から吹く貿易風が関わっている。

 厳密にいえば風だけが原因なのではなく、海流や地形などの要因も絡み合っているのだが、ともかくインド洋で発生するダイポールモード現象にも、インド洋東部で南東から吹きつける貿易風が大きく関わってくる。

 「南東からの風が吹くことで、インド洋東部の海面水温が下がります。風が吹くと海の表層にある温かい水が沖方向に運ばれ、下層から冷たい水が湧いてくるわけです。水温の低いところは気圧が高くなるため、そこから低いところへ向かって風が吹きます。ダイポールモード現象とは、このように大気と海洋が相互に作用し合う現象です」と山形教授は説明する。

 山形教授によると、かつて気象学と海洋学は別々のものとして研究されていたが、それをお互いが影響を与え合うものとして研究することにより、ダイポールモードのような現象の存在もわかってきたとのことだ。

 ダイポールモード現象によってインド洋東部に生じた高気圧は下降気流を生み、それが「ウォーカー循環」と呼ばれる赤道域の大気の東西循環によりアフリカ大陸東岸に温かい海水を運んで水温を上げ、低気圧となって上昇気流を生じさせる。水蒸気が上昇気流で持ち上げられ、大雨が降りやすくなるという仕組みだ。これが10月から11月にかけて、ケニアなどのアフリカ東部一帯に大雨をもたらす。

 また一方で、同じインド洋東部の高気圧が生んだ下降気流は、「ハドレー循環」という大気の南北循環によって、インド東部からバングラデシュ、中国南部からフィリピン、そして今回問題となっているインドシナ半島に上昇気流を生じさせ、夏から秋の初めに大雨を降らせるという仕組みである。

 ダイポールモード現象は夏の前、6月ごろに始まり、秋に最盛期を迎えて、12月には終息する。これはインド・モンスーンと呼ばれる巨大な冬の季節風がアフリカ大陸沖からインドネシアのほうへ、つまりダイポールモード現象による風とは反対の方向へ吹き始めるからだ。

 注目すべきは、このインド洋で発生する大気と海洋のコラボレーションが、遠く離れた日本付近にも影響を与えるということだ。

 「ダイポールモード現象が発生すると、日本はだいたい猛暑になるんです。インド洋東部で下降した気流が、インドシナ半島やフィリピンなどで上昇してたくさんの雨を降らせるわけですが、上昇した空気がそのさらに北、つまり日本付近で下降してきます。これが小笠原高気圧を通常よりも強くさせ、日本の夏が暑くなるんですね。もちろん日本の場合は北のオホーツク海高気圧や北極振動(北極の気圧の変動)にも左右されるので一概にはいえないのですが、大きく見ればダイポールモード現象も関連するテレコネクション(遠隔地に及ぼす影響)といっていいでしょう」

 同様に、地中海沿岸諸国の猛暑にもダイポールモード現象が関係していると考えられる。このため、ダイポールモード現象が発生した年は良質なブドウが収穫され、おいしいワインがつくられるといわれるほどだ。歴史を振り返れば、1961年には20世紀最高のビンテッジワインができたが、一方で中国では大干ばつが起こり、多数の餓死者を出し、その後の文化大革命の遠因になったという見方もある。

 ダイポールモード現象はインド洋独自のものと考えられている。エルニーニョとダイポールモードはセットで発生すると主張する学者もいるが、実際に近年のデータをひもとくと、エルニーニョ現象だけでなくラニーニャ現象と同時に発生するケースも見られるようになった。いずれにせよ、ダイポールモード自体はインド洋の現象であるとはいえ、全地球的に見ればエルニーニョやラニーニャ、さらには北極振動や南極振動とも影響を及ぼし合い、まさに大気と海洋の、つまりは地球のダイナミックな気候システムを生み出しているのである。

 そこで気になるのは、このダイポールモード現象、はたして予測はできるのかということだ。山形教授はこう語る。

 「大気と海洋の全地球的な予測モデルにより、いわば方程式を解くように、ダイポールモード現象やエルニーニョ/ラニーニャ現象の発生は予測できるようになっています。今年の場合、太平洋でラニーニャ現象が起き、インド洋ではダイポールモード現象が起きるということは、十分以前から予測がついていました。シミュレーションの結果は、海洋研究開発機構(JAMSTEC)のウェブサイトで公開しています。そして、発生の予測がついていたということは、今年はダイポールモード現象が各地でいろいろと悪さをするということもある程度わかっていたわけです。インドシナ半島で大雨が降ることがわかっていたにもかかわらず、残念なことにそれが現地で活用されていないんですね」

 ラニーニャ現象はエルニーニョ現象の逆の傾向であるから、西太平洋地域に大雨をもたらす。そこはダイポールモード現象の影響で大雨が降る地域でもあり、大雨が重なるという見方ができるわけだ。太平洋における気候変動現象と、インド洋における気候変動現象の組み合わせで、太平洋とインド洋の間にあるインドシナ半島付近に大雨をもたらしたという構図である。

 すなわち、今年インドシナ半島に平年以上の大雨が降ることは、気候予測情報からわかっていた。もしタイ政府がそれを知り、雨季が訪れる以前にダムの水量を減らしておいたならば、今回のような大洪水は避けられた可能性が高い。要はそこがタイ政府のミスマネジメントだといえるのである。

 かつて、オーストラリアでダイポールモード現象の影響と考えられる極度の乾燥が発生した際、当時のオーストラリア政府にはダイポールモード現象についての理解がなく、有効な手を打てなかった。しかし現在ではオーストラリア政府や産業界は、山形氏らが発表する予測データを気候予測に活用しているという。タイ政府にこの理解があれば・・・・・・という点では、残念なことといえる。

 ところで、今回のインドシナ半島の豪雨は、異常気象だったのだろうか。

 「今回、ラニーニャ現象はかなり強いものでした。ダイポールモード現象についてはとくに強いわけではありませんでしたが、ラニーニャが強かったということで、組み合わせが悪かったということだと思います。ただ、これまではダイポールモードとセットで起きるのはエルニーニョだという見方が多かったのですが、ラニーニャ現象との同時発生が見られたのですから、その意味で特に異常だったといっていいでしょう」

 今後、今回のような“異常気象”は増えるのだろうか。山形教授は次のように指摘する。

 「基本的には地球温暖化があります。海も温暖化することにより、大気と海洋の結合が激しくなり、大気中に取り込む水蒸気が増えます。何らかの原因でこれが凝結することで、大雨は降りやすくなるといえるでしょう。雨が降るところでは大雨が降り、一方で乾燥するところでは極度に乾燥するという、まだら模様の気象が起きやすくなるといえます。ダイポールモード現象はこれまでにも起こっておかしくなかったのですが、最近になって頻繁に発現するようになりました。これには地球温暖化が絡んでいるといってよいでしょう。このような大気と海洋の結合による現象が、今後より明瞭に出てくる可能性はあります」

 インド洋の海面水温はこの半世紀ほどで約0.6度上昇し、それによりダイポールモード現象も頻発するようになった。つまり、地球温暖化が進み、海面の温度が上昇すればするほど、ダイポールモードのような大気海洋の相互作用は強度を増し、極端な気象=異常気象も増えるというわけだ。

 そうした異常気象の予測について、さまざまな変動要因が複雑に絡み合う中緯度についてはまだまだ難しい部分が多いが、ダイポールモード現象の影響がダイレクトに出る熱帯・亜熱帯地域では予測しやすいといえる。実際、今回のダイポールモード現象も半年程度前から予測できていたわけで、この情報が現地にきちんと伝わっていれば、稲作など農業の対策には有効だし、今回のような洪水も防げたかもしれない。

 「タイにはおそらくいまも、3カ月予報のような長期予報はないと思います。リスクマネジメントのため、私たちが出す気候情報に興味を持ってもらえればと思いますね」

nikkeibp.co.jp(2011-11-01)