ホンダが挑むCIGS太陽電池【2】
優秀な若手を確保、量産に着手

永井隆(ジャーナリスト)

 ホンダソルテック(以下ソルテック)の管理課課長、松永和明は人を集めなければならなかった。しかも、新しい会社であるソルテックで中心になって働く人材をである。

 2006年12月、二輪の生産拠点であるホンダ熊本製作所内にソルテックは設立した。前回紹介したように、太陽電池工場を熊本製作所内のどこに建設するのかですったもんだがあったものの、同年9月からすでに建設に入っていた。

 ただ、ソルテックの設立時には、オフィス部分はまだできていなかったので、熊本製作所内にある通称クラブハウスと呼ばれる福利厚生施設を仮事務所として使っていた。松永は「空調もろくに効かない、古くて汚い建物なんです」と笑う。

 「足を崩してください」から始まる和室での面接

 2006年秋に松永は動き出す。転職をサポートするエージェント会社に技術職の求人を申し入れると、エントリーはすぐに1000人に達した。松永は履歴書を読み漁り、社長になった数佐明男やホンダ本社からやってきた幹部らとともに、応募者の書類選考を進めていった。

 2007年が明けると、面接選考である。書類選考でかなり絞ったが、それでも100人以上は面接をしなければならない。対象者は、20代後半から30代前半の若手がほとんど。数佐や松永らが、手分けして一人ひとりと面談していった。

 クラブハウスは、そう広くはない。小さな会議室に間仕切りを置き、面接場所を2つ確保しだが、それだけでは足りず、和室も使った。熊本製作所の社員が、囲碁や将棋に興じることもある部屋だ。

 和室での面接のとき、若い応募者は緊張した面持ちで、座布団に正座をする。「どうぞ、足を崩してください」。松永は、最初に必ずそう言葉をかけた。それから、志望動機やセールスポイントを聞いた。

 実はいまでも、社内の飲み会になると和室での面接が話題となる。「天下のホンダを受けにやってきたら、何とたたみの部屋に通された」「和室の面接は初めてだった」「面接作法のノウハウ本を読んできたのに役に立たなかった」。誰もが印象深かったようだ。

 面接の後で、社長の数佐は松永たちに言った。「応募が多いからなのか、優秀な若者がたくさん集まったな」

 これには理由があった。2000年代の前半まで、就職氷河期が10年ほど続いていた。文化系だけではなく、理科系の学生にとってもである。優秀な理系学生であっても、派遣社員に甘んじているケースは多かったのだ。例えばこんな人もいた。優秀でまじめであるがゆえ、派遣のシフトリーダーとなり辞めにくくなってしまい、気がつけば30代前半になっていた。派遣社員の身分のままで自分はいいのか、と葛藤をしているときにホンダの求人があり、応募した。


 ソルテックが欲しかったのは、プロフェッショナルな技術職だった。ところが、太陽電池事業に求められるのは電気・電子系の技術者。二輪や四輪に必須の機械系技術者ならともかく、電気・電子系を確保するルートもノウハウも松永たちは持ってはいない。転職支援のエージェント会社に登録している、技術職向けに募集をかけたのは、このためだった。

 2007年春、1000人の応募の中からまず13人を選ぶ。新設会社のソルテックにとって、将来を担うと期待される技術者たちだ。ゴールデンウイークに、入社したばかりの13人がまずやらされたのは、数佐社長らとともに完成したばかりの建屋を掃除することだったのは、前回紹介した。

 創業に立ち会う貴重な体験

 松永は1970年生まれ。佐賀県の出身。工業高校の機械化に学び、剣道部に所属していた。部活の帰り、松永は不思議な赤い車を見る。その車は前輪だけではなく、後輪までもが自在に方向転換した。これが世界で初めて機械式4WS(四輪操舵)を搭載したホンダ・プレリュード(3代目=1987年4月発売)だった。

 「こんなすごい技術を持った会社で俺は働きたい」

 ホンダから高校へは、求人が2人分きていた。就職担当の教師に希望を告げるが、「ホンダに入るのは難しい。お前の成績では無理ではないか」と教師は答えた。しかし願いは叶った。88年にホンダ鈴鹿製作所に入社し、車体組み立てに従事する。

 ちなみに、3代目プレリュードは4WSといった先進技術の導入もあったが、そのデザインから「デート車」として知られる。国産車として最初に、女性が助手席に乗りたくなるデザインを採用した車という位置づけだ。このころホンダは鈴鹿製作所内に、当時としては世界最高速の「第三ライン」を新設する計画があり、社員の増員を進めていた。

 松永は車体組み立てに約10年間勤務し、99年に鈴鹿製作所の総務課に異動した。同製作所の人事の専門職として、新たなサラリーマン人生が始まったのだ。そして2006年8月、ソルテック設立に備えて総務を管理できる人材として熊本に転勤する。

 ただし、大きな組織の鈴鹿とは異なり、事務関係はすべてを松永が担うこととなる。技術集団の中にいる、たった1人の「事務屋」だった。求人と並行して、松永は就業規則をつくった。外部のコンサル会社や社会保険労務士に外注するのではなく、自分で作成したのである。このほかにも、自治体との窓口、広報、タイムカードのチェックなど、なんでもやった。

 松永は言う。「仮に鈴鹿で働き続けたなら、人事企画の専門家となっていたはずです。しかし、ソルテックではまさに創業に立ち会えたのです」。

 松永は、鈴鹿製作所でも新入社員教育を何度も企画運営した。ホンダ哲学についての講義では、社内の講師が「無から有を生むのがホンダなんだ」と堂々と話していた。その講師には、無から有を生んだ経験はないのにだ。話の中身は美しいが、言葉に重みはなかった。

 ところがソルテックでは、まさに自分自身が「無から有」を経験する。ゴールデンウイークの掃除の合間に、「ホンダの原点は、ゼロから1を生むこと」と新入社員に話しかけたのは、松永の思いそのものだった。新しい会社をつくるという現実に向き合っていた男は、何も知らない新入社員を大きく育てたいという気持ちが強く、言葉が溢れたのである。

 突如社長に指名されて戸惑う数佐の心情も、CIGS太陽電池への参入が難しいことも、松永は知っていた。が、何より新規ビジネスを若者たちとともに始めてることが、松永には嬉しかった。

 同じ設備なのに歩留まりが上がらない

 最初に採用した13人は、ホンダグループで生産技術を開発するホンダエンジニアリング(栃木県芳賀郡)で研修を受講した。その一方、数佐や松永は同じ手法で再び募集をかけ、2007年8月までには新たに20人ほどを採用した。並行して栃木のホンダエンジニアリングで実証していたのと同じ設備を熊本の新工場に搬入し、試運転を開始した。

 同年8月、当時はホンダエンジニアリングの技術者だった船川和彦が、熊本のソルテックに乗り込む。量産のためのPL(プロジェクトリーダー)としてである。

 なお、PLはホンダの社内用語。新車開発ではLPL(ラージプロジェクトリーダー)などの言葉もあるが、今回の場合は一般的なプロジェクトリーダーと、ほぼ同じ位置づけである。

 船川は、新工場に働く若者たちと研修で会っていたために顔見知りだったが、その表情は明るくはなかった。設備がうまく稼働せず、歩留まりが目標に達していなかったのだ。

 栃木と同じ装置を使って、同じ基板サイズの太陽電池を同じやり方で量産しようとしているのに、結果が出ない。  「太陽電池の量産は、自動車やバイクの量産とはそもそも性質が違う」。船川には、量産が厳しいという予測がある程度あった。自動車づくりとは異なり、化学系の太陽電池を量産するには職人技が必要な部分が大きいのだ。

 ソルテックは10月に量産を開始し、11月には熊本県知事らを招いた開所式を催す予定でいた。当然、ホンダの社長もやってくる。何より、内外に事業開始を表明していたのだ。

 「何とかしてくれよ!」。かつてレースの世界に生きてきた社長の数佐は、船川に訴えた。ホンダ陣営のレース総責任者が、連敗中のチーム監督を焚き付けるように。

 「はい…」とは答えたものの、歩留まりはなかなか上がらない。設備が壊れるアクシデントにも見舞われる。船川たちの、本格的な戦いがここから始まった。


nikkeibp.co.jp(2011-06-20)