ホンダが挑むCIGS太陽電池【1】
「ゼロから1を生む」社風を体現

原発事故の前から、「分散型発電」の重要性を訴えていたホンダ。エネルギーの「家産家消(かさんかしょう)」「スマートホーム」を標榜している。そのコア技術が、CIGS薄膜太陽電池だ。現在主流のシリコン系太陽電池とは異なる技術である。阪神甲子園球場の屋根にも採用され、2010年3月から稼動している。事業を立ち上げたのは2007年。だが、自動車づくりとは別の世界だった。世界最高水準の変換効率達成や量産技術の確立を目指して日々、奮闘を続けている。

 「とにかく、きれいにしよう」
 「雑巾はどこでしょうか」
 「バケツの水を入れ替えてきます。水道はどこにあるのでしょうか」
 2007年5月のゴールデンウイーク。作業服を身につけた13人が、フロアを一生懸命に清掃している。建設されたばかりの工場には、生産設備はまだ搬入されてはいなかった。巨大な体育館のように、だだっ広い。

 社長も、新入社員も、全員で清掃

 熊本県菊池郡大津町にあるホンダの子会社、ホンダソルテック(以下ソルテック)。CIGS薄膜太陽電池を生産販売するために、前年の2006年12月に設立された。本社は、二輪車の生産拠点であるホンダの熊本製作所の広大な敷地内にある。  「よし、一休みしよう」。ゴシゴシとブラシがけをしていた社長の数佐明男は、みんなに声をかける。腕時計の針は午後3時を指していた。フロアの片隅に車座をつくり、管理部の松永和明がペットボトルのお茶を配る。

 受け取る職員は20代の若者が多い。彼らがどこかと戸惑っている様子なのは、工場が新築だからだけではない。若者たちは、入社したばかりだったからだ。この日は祝日だったが、ホンダグループの稼働日に当たったため、社長から新入社員までが一緒に新設工場の清掃作業をしていたのである。

 「ホンダは無から有を生む会社だ。世界一、そして世界初が大好きなんだ。量では負けても、決して技術で負けてはいけない」。数佐はお茶をグビグビ飲みながら、入社まもない社員たちに大きな声で話しかける。豪放磊落(らいらく)な人柄が滲み出る。


 その言葉とは裏腹に、数佐は内心で「騙された」と、この頃感じ始めていた。ソルテック社長に就任する以前は、ホンダのレース部門総責任者を務めていた。F1やスーパーGTなどの四輪はもちろん、二輪レースなどすべてを統括していたのだ。

 レースの責任者だった数佐に、本社企画部門の人間たちは、次々に言った。「太陽光発電は必ず伸びます。ホンダの技術をもってすれば、すぐに世界のトップに立てます」「何しろ環境の時代ですから。補助金も出るんですよ」「新規ビジネスをすぐにモノにできるのは、海外を含め事業経験が豊富な数佐さんしかいません」と。

 ところが新会社社長に就いてみると、CIGS薄膜太陽電池の量産はかなり難しいことが分かってきた。しかも、数佐を社長に祭り上げた人々は、彼が熊本に赴任してからというもの、何らコンタクトをよこさなくなった。

 「ハシゴを外しやがって」と内心では思っていたが、新任社員の前では明るく前向きな話をするようにしていた。そんな数佐の心情を察していた松永は、若者たちに言った。

 「ホンダのフィロソフィーを、私達は具体的に体験できる。ホンダの原点はゼロから1を生むこと。ライバルと比べて新しいことへの挑戦が多い。それでも、現実に事業化するケースは少ない。これからきっと苦労は多いけれど、自分たちはラッキーなんだよ」

 後追いは嫌い、世界初が大好き

 そもそも、ホンダが太陽電池に参入するきっかけは、豪州で開催のソーラーカーレース「ワールドソーラーチャレンジ」への参戦だった。初参戦から3年後の1993年に準優勝、96年にはついに初優勝を果たす。ところが、ホンダ社内には不満が残った。ソーラーカーの心臓部である太陽電池は米サンパワー製だったのだ。「ホンダ製でなければ意味はない」と幹部は感じていた(ちなみに、今年5月、仏石油大手のトタルは約1100億円を投じて、サンパワーの株式の60%を取得し傘下に収めたと発表している)。

 自社の太陽電池を積んだソーラーカーをつくるために、ホンダは電池開発に乗り出したのである。96年当時も現在と同じように、太陽電池の主流はシリコン系。つまり、半導体と同じシリコンを材料としている。だが、ホンダはシリコン系ではなく、あえてCIGSの化合物を使った太陽電池に狙いを絞った。CIGS薄膜太陽電池とは、銅(Cu)、インジウム(In)、ガリウム(Ga)、セレン(Se)を原料とした化合物を発電層に使った太陽電池だ。当時としては次世代型だった。

 「ホンダは後追いが大嫌い。世界初ではなくなるからです」と数佐は話すが、後発でシリコン系に参入したところで、先行するサンパワーやシャープ、京セラなどに勝ち目はなかった。


 CIGS薄膜太陽電池は、シリコン系と比べ発電層を薄膜化できるのが特徴。代表的なシリコン結晶系と比べ、ソルテック製の場合は約80分の1になる。したがって、少ない原料とエネルギーで製造でき、低コストでの量産が見込める。さらに「4つの金属元素がさまざまな波長を受けて発電するため、日差しが弱くとも粘り強く発電できるし、屋根に影がかかっても電力低下は少ない」(船川和彦・ソルテック開発センターセンター長)。

 その一方、太陽光エネルギーを電気エネルギーに変える効率(変換効率)は、シリコン系の方が上。特にパナソニックグループの三洋電機「HIT太陽電池」は高い。

 当初は、二足歩行ロボットのASIMOなども手がける本田技研基礎研究所で基礎開発をスタート。変換効率が向上した2000年代半ばに、生産技術や設備を開発するホンダエンジニアリング(栃木県芳賀郡)が実験プラントをつくり量産を目指した。その後、ソルテックを設立し事業化した、というのが大まかな経緯である。

 図面を描けない新入社員

 ソルテック社長の数佐は1952年生まれ。静岡県浜松市出身。日本の大学院で経営工学、カナダの大学院でシステム工学の修士をそれぞれ取得して1979年に本田技術研究所に入社。花形であるエンジン設計に配属される。ところが入社早々、大きな問題が発生する。数佐は、図面を描けなかったのだ。カナダの大学院では、IBMの大型コンピューを学生が自由に使えた。設計はいつもCAD(コンピューター支援の設計)である。ところが、ホンダには高性能の大型コンピューターがなかったのである。ドラフターを使った手書きの図面など、「ボルト1本さえ描けなかった」(数佐)そうだ。

 「海外に行かせてください。ここでは仕事ができません」。数佐は上司に訴えた。「バカ言うな! そんな簡単に異動できる会社がどこにある」と、上司は真っ赤な顔で怒った。しかし、希望は叶う。まず、ローバーとの共同企画プロジェクトに異動して東京青山の本社で7年ほど勤務し、その後は世界へと本当に出て行く。HAM(ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング、オハイオ州)をはじめ、英国、メキシコ、ブラジル、インドと赴任する。生産ラインや工場の立ち上げばかりでなく、ディーラー網をつくることもあった。特にインドでは、二輪の生産と販売を手掛けるインド財閥との合弁を強固にさせた。その後、レース部門の総責任者に就いた。

 ホンダが太陽電池を開発しているという事実を、数佐は「社内報で知る程度だった」。2005年11月に新聞が太陽電池の事業化を報じるが、内容はなかなか見えてこなかった。そんな数佐が2006年6月、あることをきっかけにソルテックと深く関わることになる。

 実は、ソルテックの新工場は当初、熊本製作所内の別の場所に建設を予定していた。その場所は二輪工場の近くにあり、モトクロスと二輪のロードコースがあった。二輪工場と新工場で同じ動力源を使おうと計画していたのだ。コースを潰して、新工場を建てようとしているソルテックの関係者を、レースの責任者だった数佐は怒鳴りつけた。

 「モトクロスの公式戦の予定が、来年度まで決まっている。ホンダの都合で、勝手にコースを無くすわけにはいかない」。「ホンダは、レースのために車やバイクを作って売っている。車を売るためにレースをやっているところとは、根本的に違うんだ」

 さらに続けた。「俺は海外で、工場をいくつも立ち上げてきた。中身の異なる工場で同じ動力源を使うのは、あり得ないことだ。片方の工場が三交代勤務、もう1つが土日も休みなら、無駄が多くなる」。

 怒りが収まらない数佐は工場管理担当の専務にも会い、「絶対に、あり得ません。工場建設のイロハでしょう」と直訴した。主張は認められ、新工場は二輪工場よりも離れた現在の場所に建設が決まった。

 サラリーマン人生で、最大の驚き

 そこまでならよかった。だが、このすったもんだの5カ月後、数佐のソルテック社長就任が内示される。

 「エー!」

 自身のサラリーマン人生で、最大の驚き。すったもんだが原因だとは思えないが、どこかすっきりしない。

 数佐は言う。「サラリーマンですから、(辞令には)逆らえないですよ」と。新入社員のときとはもう違う。2006年12月、社長に就任したが、新工場での量産計画には難問が山積だった。(文中敬称略、次回に続く)

nikkeibp.co.jp(2011-06-10)