3階超える波「悪夢」 生還の南三陸町長


 今も人口の半分以上と連絡が取れない宮城県南三陸町。職員約30人が詰めていた同町の防災庁舎は鉄骨だけになったが、佐藤仁町長(59)ら10人が奇跡的に生き残った。

 大震災の時、佐藤町長は町議会にいた。閉会間際に、長く激しい揺れが襲った。本庁舎隣の防災庁舎に移り、防災無線で避難を呼び掛けた。

 30分後、屋上から職員が「津波がくる」と叫んだ。1960年に町を襲ったチリ地震津波は高さ5・5メートル。町の防災計画はすべてこの津波が基準。だが屋上に上がった佐藤町長の目に、高さ8メートルの水門をはるかに越える津波が来るのがはっきりと映った。

 高さ11メートル、3階建ての防災庁舎も津波にすっぽりのまれた。佐藤町長は偶然、鉄製の手すりにしがみつく。「波の下にいたのは約3分間だと思う。途中、なんとか息継ぎができた」。第1波が引いた時、防災庁舎に残ったのは、手すりにつかまった7人と、屋上のアンテナに抱きついた3人のみだった。

 大津波は第4波まであり、そのたびに頭まで水をかぶる。雪も吹き付け、刺すように冷たい風。屋上に流れ着いた流木やロープを燃やして暖をとった。職員の1人は、庁舎隣の自宅が、妻を残したまま流されるのを目の当たりにした。

 「これは夢だよね、と話し合った。朝がきて街を見るのが怖かった」

 朝日に照らされたのは、数軒の建物が残る変わり果てた光景。役場で働いていた130人の大半は、いまも連絡がとれない。

 ロープを伝って下りたのは12日午前8時半ごろ。佐藤町長は避難所を回って無事を伝え、町総合体育館に町災害対策本部を設置。海水のしみこんだ防災服で陣頭指揮を始めた。しかし「役場がなくなり、情報発信が全くできなかった」。携帯電話のアンテナも流されたようで、通じない。

 他の6つの避難所とは職員らが徒歩で連絡を取る。避難生活をするのは計7500人。「被害はこの町だけではないから、あまり言えないが」と前置きしつつ、「パンを2万個もらっても1日で終わる。毛布も足りない。避難した車のガソリンも枯渇した」と窮状を訴えた。  

中日新聞(2011-03-15)