【時代のリーダー】川本 信彦・本田技研工業社長
“独裁者”の孤独に耐え改革貫く 苦節6年、RVで一点突破

 先行きが見通しにくい2009年。困難な時代には新しいリーダー像が生まれるはずだ。これまでも企業経営や政治に新しい時代を切り開いたリーダーがいた。そんな時代のリーダーを日経ビジネスが描いた当時の記事で振り返る。 (注)記事中の役職、略歴は掲載当時のものです。
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<<”日経ビジネス”1997年3月17日号より>>
 「本田イズムの否定」から始めた社内改革も6年余りが経過した。国内外で新型車がヒットし、改革が実を結びつつある。「絶海の孤島に1人残されても生きていける」。この強烈な自負が、周囲の「ヒトラー」という批判を生み、本田を蘇らせもした。全面展開ではなく、一点突破を狙う新しいタイプの経営者だ。=文中敬称略(山川 龍雄)

 
 今年2月10日、宮崎県のリゾート施設「シーガイア」に着いた川本信彦は、南国の空気に触れたせいもあってか、いつになく明るかった。

 好調な国内販売のお礼として、全国から招待した販売店の社長夫婦と握手していくうち、左手をそっと相手の右肩に添えるようになっていた。川本が利き腕の左手を動かすときは、機嫌の良いしるしである。業務や飲食には右手を使うので、右利きと思っている人が多いが、持って生まれたのは左利き。「社長の気分が知りたければ左手を見ろ」。本田技研工業の社員の間で密かに伝えられている、機嫌をうかがう方法だ。その左手が最近よく動く。

 1997年3月期の経常利益は1550億円を見込む。前年の3.3倍、過去最高益の1.88倍に跳ね上がる。円安で収益の回復が著しいトヨタ自動車でも、過去最高益の0.84倍にとどまる中で、自動車業界ではダントツの回復力だ。

 牽引役はもちろん、94年秋に発売した「オデッセイ」を皮切りに、95年秋の「C‐RV」、96年の「ステップワゴン」「S‐MX」と、発売すればヒットを飛ばした一連のRVだ。国内では売れ行きが鈍い主力セダン「シビック」と「アコード」も、海外では絶好調。米国ではシビックの生産が間に合わず、鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)が休日を返上して生産、輸出で対応している状況だ。昨年タイで発売したアジア向け小型車「シティ」も、東南アジア各国に販路を伸ばして快走している。

「本田宗一郎を忘れろ」

 いまや絶頂の極みにあると言えるが、ほんの2年前までは川本に対する社内外の風圧は強かった。95年元旦の新聞は、1面トップで「本田技研工業と三菱自動車工業が合併」と報じた。川本には身に覚えがない。RVに出遅れ乗用車に固執していた本田と、乗用車は弱い半面、飛ぶ鳥を落とす勢いのRVを持つ三菱自工が合併すれば、相互補完できると机上で計算したある銀行筋の発言が発端だった。

 この報道に川本は怒り狂った。だが、彼自身にも責任の一端はある。バブル崩壊と円高で厳しい逆境を経験したのは彼の責任ではなかったが、川本はあえて自分自身への強い批判を呼び込む発言や行動をとる。

 90年6月に社長に就任して以来、「本田宗一郎をしばらく忘れろ」とか「本田は普通の会社になる」というような発言を繰り返し、本田の成功体験が染み着いた社員や関係者、一部のマスコミから強い批判を受けてきた。宗一郎を人一倍敬愛し、意識するがゆえに飛び出す発言だったが、周囲にはそれは伝わらない。本田の元幹部の中からは、「川本に任せていては会社がどうなるか分からん」という発言まで飛び出す始末。社長の経営手腕を不安視する雰囲気が、合併論につながった経緯は否定できない。

 実際、川本のとった手法は、それまでの本田を否定するようなものばかりだった。大部屋の役員室で役員の序列に関係なくワイワイガヤガヤと話し合って経営方針を決める本田独特の「ワイガヤ」は時代に合わないと判断し、社長1人が決断を下す方式に改めた。

 本田にはこれまで、宗一郎には藤沢武夫、河島喜好には川島喜八郎、久米是志には吉沢幸一郎という社長に匹敵する権限をもつ副社長がいて経営を分担してきた。だが、社長1人の決断を重視する川本は女房役をつくろうとはしなかった。

 F1レースから撤退を決めたのも川本である。若い頃には自らF1レースを引っ張り、その面白さを知り尽くしているだけに、エンジニアたちからは「自分だけうまい汁を吸っている」との批判も上がった。

94年に不協和音はピークに

 誰彼となく、陰で川本をヒトラーと呼ぶようになった。さすがに最近は余裕が出てきたのか、社内の宴席などで、自分自身から酔った拍子に手を斜めに挙げ、ヒトラーの真似をする場合があるという。しかし少し前までは、新車の発表会場で、独裁とかヒトラーと発言する記者がいると、突然、神経質になり口を閉ざす場面もあった。

 誤解されやすい性格が輪をかけた面はある。167センチメートル、60キログラムと大柄とはいえない体で社員の中に交じったら、誰が社長か分からないほどだが、一度怒れば周囲を黙らせる緊張感がある。本当のところは酒が入るとべらんめえ調になり、周囲の人に酒をついで回る陽気な人物なのだが、時折難しい顔になったり、短気を起こす。その陽と陰の落差が激しいため、周囲は川本と距離を置こうとする。

 業績も社長就任から数年間、低迷を続けた。社長に就任する前の90年3月期に905億円あった単独の経常利益は94年3月期には227億円まで、4分の1に落ち込んだ。94年頃、社内に広がった不協和音はピークに達した。

 当時社長秘書をしていた取締役の大久保博司は述懐する。「社長が幹部向けにスピーチをして帰る時、私まで背中に寒いものを感じた」。

 当然、川本のストレスも臨界点に近かったはずだ。川本はぽつりと漏らす。「私は絶海の孤島にただ1人残されても生きていける」。社内外の強い風圧の中で、川本を支えていたのは、孤独に耐える強い意志と、本田を変えなければならないという意地だった。

 社長に就任した90年の6月はまだバブル経済の余韻が残り、多くの経営者は大胆な経営改革の必要性を感じていなかった。しかし、川本は「いまのままでは本田は次の世紀に生き残れなくなる」という危機意識を抱く。「80年代後半から自信を持ってモデルチェンジしたアコードやシビックが地域的に売れたり売れなかったり、まだら模様だった。メーカーと消費者の間に大きな溝が生じていると感じた」。そこから川本の一点突破の経営が始まる。

2人の子供“真っ直ぐ”と命名

 「思い込んだら後はまっしぐら」。川本の周囲は異口同音にそう言う。研究所時代の川本を知る専務の下島啓亨は「愚痴を聞いたことがない。目標達成への執念がすさまじく、くよくよせず、すぱっと割り切る」。

 東北大学時代からの親友である荏原総合研究所の専務である橋本弘之はこんなエピソードを語る。

 「大学時代、蔵王へ登山に行ったときだった。下山途中で、彼だけが違う道を主張、皆の反対を聞かず、1人だけ強引に下りていった。結果は、川本が道に迷い、先に下りた我々は夜中に懐中電灯を持って探し回った」

 会社に入ってからも、我の強さは人一倍光っていた。入社して5年目。本田はF1レースからの一時撤退を決める。川本は怒りだし、「こんな会社は勤めていても面白くない」と言って、1カ月間、出社しなかった。

 川本自身、そんな自分の性格をよく知っている。しばしば周囲との摩擦やトラブルを生じることも。しかし、そんな自分が好きなのである。川本には1男1女がいる。長男を真一、長女を直子と名付けた。2人から1字ずつとると、「真直(まっすぐ)」になる。

 開発、企画、購買、海外などを歴任し、川本よりむしろ社長の本命と目されてきた入交昭一郎・前副社長(現セガ・エンタープライゼス副社長)について「彼は優秀だから…」という言い回しをする。これも自分は何でも器用にできるわけではないが、目標を1点に定めたら信念を貫き通す力だけは誰にも負けない、という彼なりのプライドの表れなのかもしれない。

 川本は、重圧があればあるほど、信念を貫き通そうとする。もちろん、単なる思いつきでは信念とは呼べない。川本の頭の中では理論構築が出来上がっていた。これまで本田が生きてきた成長・競争・輸出というパラダイムが崩れ、安定・共存・世界化に置き換わったという認識だ。

 「この10年間は自動車業界は為替と政治に振り回されてきた。排ガスやエネルギー、廃車問題などまで考えると自動車メーカーの存在自体が危うい」。今では多くの経営者が当たり前のように唱える将来に対する危機感だが、バブルの余韻に浸った90年当時から、書生じみた学生のようにこの言葉を繰り返してきたのが川本だった。

成功の土台つくったTQM

 そんな川本が社内の反対を恐れず取り組んだ典型例は、およそ本田とは似つかわしくなかったTQM(総合的品質管理)の導入だろう。時代の先端を行くクルマを真っ先に市場に問い続けてきたのが本田である。現場でコツコツ品質とコストダウンを積み上げるのは、トヨタに任せておけばよい、という認識が社内には少なからずあった。川本が「導入して6年たつのに、いまだに社内には不満の声がある」と言うほど拒否反応は強かった。

 川本は言う。「経験とか勘とか度胸とか属人的なことでビジネスをやるなということ。TQMは一言でいえばお客志向。お客さんに最も喜ばれるタイミング、価格、品質を考える手法だ」。

 実際、TQMの導入で、鈴鹿製作所や狭山製作所(埼玉県狭山市)は、不良が大幅に減った。生産後の検査で不良個所が見つかり手直ししていた割合が、多いときには3割近くに上っていたが、最近では1割を切っている。発売の半年前くらいから最低でも計3回はラインに試作車を流していたが、2回に減らすことが増えた。

 開発部隊のトップである副社長の吉野浩行は「TQMがなければ、RVの成功はあり得なかった」と言い切る。実際、本田は過去に何度もRVの開発を計画しては断念した経緯がある。生産コストが全く見合わなかったのだ。TQMで品質とコスト、開発スピードの改善が進んだ結果、RVが市場性のある価格で生産できるようになった。吉野は「本田の開発者は皆、RVをやりたくて仕方がなかった。ゴーサインが出て、目の色が変わった」と言う。

 戦後、挑戦する会社の代表だった本田。その眠っていたパワーを引き出すきっかけをつくったのが、実は最も泥臭く地味な活動だったわけである。

国内専用か世界共通か

 RVの“波状攻撃”を本田が決意したのは93年。少し前に本田は、国内の雇用を守るために、当時60万強だった国内販売台数を98年までに80万台に引き上げる決意を固めていた。

 20万台の上積みのために新型車のラッシュが必要になる。ただ、その実現には国際化した本田の現実が立ちはだかった。

 「あの時のかわさん(川本のニックネーム)は度胸があったと思う」。こう振り返るのは米国ホンダの社長、雨宮高一だ。雨宮が言うのは、この時、川本が新型車を国内専用モデルとして開発していくことを決めたことを示している。というのも、93年当時、開発にかける投資のうち、国内専用モデルが占めるのは5%で、全体の65%をシビックやアコードなど世界共通モデルに、30%を東南アジアや米国向けの乗用車に振り向けていた。つまり日本のためだけに乗用車を作る発想は、浮かびにくかったのである。

 にもかかわらず、国内専用車の道を選んだ理由を川本はこう説明する。

 「世界モデルを作る場合、どうしても大量に売れる米国にデザインの好みなどが引っ張られる。確かに米国にリスクヘッジできるのは大きいが、それより最も重要なテーマは国内の立て直しなのだから、日本を見て仕事しなければならないと判断した」。それが後に固定観念にとらわれない自由な発想のRVの誕生につながる。

役職者は口出すべからず

 独裁と批判される川本だが、自らの権限にこだわるのは大きな枠組みを決める時だけで、あとは大胆に現場に任せる。副社長の宗国旨英が「将来は本田技研がホールディング企業(持ち株会社)になることまで視野に入れて、日米欧アジア4極の自立を進めている」と語るほど、地域の意思は尊重する。

 一連のRV開発についてもそうだった。本田には新型車の開発全般の責任を負う開発総責任者(RAD)がいる。川本は彼らに新車の具体的なデザインや仕様選定を任せた。

 その代わり開発総責任者の人選にはこだわりをみせた。それまでは研究所出身者が就くのが慣例だったが、断続的に営業、生産、購買畑から抜てきしていった。これは“技研貴族”とまで揶揄された技術者の唯我独尊体質を打破するための措置でもあった。

 「設立して40年以上もたつと開発、販売、生産、管理などに閥ができる。これをぶっ壊す必要があった」

 営業畑出身の有澤徹の抜擢は94年。きっかけは彼が書いたリポートにあった。93年秋に社内にオデッセイに続く4台のRVの開発指令が出た時、営業企画室長を務めていた有澤は経営陣に対し1つの提案をした。

 名付けて新3K。「権限委譲、既成破壊、規制緩和」の頭文字を取ったもので、一言でいえば「若い人向けにユニークなクルマを作りたいなら、固定観念を捨てて開発に臨む必要がある」という主旨だ。有澤はこのリポートを持って川本に直談判もしている。

 もとより既成概念の打破を訴えてきた川本がこの提案に共鳴を覚えぬはずがない。さっそく役員会議にかけて、有澤をステップワゴンとS‐MXの新しい開発総責任者に任命する。

 川本は「記憶力抜群の秀才では、どこかで見たようなクルマになってしまう。新しい商品を作る人はこうありたいと強く願いを持つ人がいい。有澤くんにはそれがあった」と言う。

 有澤は次々と開発の新機軸を打ち出した。売価ありきの目標設定、系列にとらわれない部品調達、斬新なデザイン――。なかでも川本自身、「あれには驚いた」と振り返るのが「冠省入山村(かんしょうにゅうさんそん)」と書いた看板である。新車の開発メンバーが集う本田技術研究所(栃木県)の一室の入り口近くにこの看板は掲げられた。冠省入山村とは「この部屋(山村)に入りたければ、肩書(冠)を忘れろ」という意味。実際、ここには川本も訪れたことがあるが、その時の様子を苦笑しながら振り返る。

 「立場を振り回して、ああせいこうせいと言わないでくれ、と私に言うんです。中を覗くと、本当にメンバーがのびのびと楽しそうにやっている。給料を返せと叫びたいくらいだった」。そんな自由な雰囲気から生まれたのがステップワゴンでありS‐MXだった。

数年先までの続投をほのめかす

 今年3月3日、61歳の誕生日を迎えた。本田には60歳定年という不文律がある。社長定年は67歳と内規では決まっているが、宗一郎などを除けば、役員は60歳までに退任してきた。

 その誕生日に行ったインタビューで川本は「社長は10年くらいが区切り」と続投宣言ともとれる発言をした。

 「円安になっていなければ、もっと早く退いたかもしれない。しかし、為替でこれほどじゃぶじゃぶ利益が出ては、ここまで必死になってハンドルを切ってきたものが戻ってしまう」

 確かに本田が抱える課題は多い。以前から問題視されてきた従業員の年齢構成の偏りは、ここ数年の採用抑制とこれからの採用急増で、またこぶが1つ増える。工場の設備更新もここまでは引き延ばし気味できた。「慢心から店頭販売のサービス充実などが先送りされている」と販売出身のOBはみる。そして何より自動車産業はこれから本格的に国境を超えた大競争時代に入る。グループ資本力で見れば決して上位に来ない本田がそこで生き残る道は極めて険しい。日本市場で久々に沸いた活況に浮かれてはいられないのだ。

 権力欲は強くなくても、自ら図面を引いた「新生本田」を疾走させることへのこだわりが、周囲には権力志向と映ってしまう。どこまでいっても批判を背にしながら、改革のハンドルを切り続ける悪役を、来年50歳を迎える本田技研は川本に託そうとしている。

business.nikkeibp.co.jp(2009-04-28)