憎悪の母グマと格闘「意識飛ぶかと」
 山野井さん生還記

 ベテラン登山家でも、山でクマに出合うことは少ない。ましてやクマと格闘したケースは珍しい。世界的な登山家、山野井泰史さん(43)がそんな恐怖体験をした。顔面と右腕に計90針縫う重傷を負いながら「奇跡の生還」をした本人と現場を訪ねた。

 9月17日午前7時、山野井さんは、奥多摩湖を望む高台の自宅を出た。倉戸山(1169メートル)周辺の山道を駆け抜けるトレーニングが目的だ。

 自宅から約600メートルのところで散策道に出た。幅1メートルと道幅も広くなり傾斜も緩い。さらに約200メートル進むと、動物の食害から桜の苗木を守る高さ約1.8メートルの鉄製ゲートがある。扉を開けながら山野井さんは「まさか、この先にクマの親子連れがいるとは思わなかった」。約50メートル先でクマに襲われた。

 谷側は約40度の急斜面で、足元に注意を払いながら全力で走っていた。いきなり、前方で「グワーッ」と大きなほえ声がした。顔を上げるとクマが突進してきた。後ろに子グマがいる。右腕をかまれて引き倒された。激痛が走る。クマは体長約1メートル、体重60キロくらいか。すごい力だ。

 さらに顔面をかまれた。憎悪に満ちた母グマの目が光る。鼻の根元をかみ続けながらほえている。ひじで押しのけるなどの抵抗をした。「痛みと恐怖で何度も意識が飛びそうになった」。そのまま、クマと一緒に急斜面を転げ落ちていたら生還はできなかっただろう。クマが口を離した瞬間、起き上がってゲートを開けて逃げた。200メートルほど先で振り返り、クマが戻るのが見えた。

 1週間入院し、抜糸も終えて元気になった山野井さんは「クマからすれば人間が襲ってきたと思ったのでしょう。経験したことのない恐怖を味わったけど、クマを恨む気持ちはない」と振り返った。

 奥多摩周辺にはツキノワグマが生息している。日本クマネットワークの山崎晃司代表は「今回のケースは子グマを守る母グマの防御的な行動と見られる。秋は冬眠に備えてクマが活発に行動する。クマよけの鈴や声を出すなどして人間の存在を知らせ、事故を防いでほしい」と呼びかけている。(近藤幸夫)

asahi.com.(2008-10-15)