「世田谷一家殺人事件」

===書評===

アジア系外国人犯罪の“リアル”を突き付ける一冊
 2000年12月30日深夜、世田谷区の住宅地で、宮澤みきおさん一家4人が惨殺された事件を追い、犯人を特定したとする本だ。現在も同事件は未解決のままで警察による捜査は続いている。その犯人をルポライターが特定したということで、本書は現在ベストセラーの上位に顔を出している。

 著者の齊藤氏は、警察のセクショナリズムの狭間に埋もれた情報を丹念に追い、この無惨な殺人を実行したのが「故郷に金を持ち帰る」という意識で集まった、中国、韓国、ベトナムなどの留学生による犯罪集団のメンバーであるという確信を持つ。そして、犯人を特定し、顔写真を入手する。さらに、犯行経緯を犯人から聞いたという集団メンバーから、どのようにして事件が実行されたかを聞き出すことに成功する。

 刺激的かつ深刻な内容だ。しかし、本書の評価は非常に難しい。

 書に対する疑念と懸念
 まず、齊藤氏の取材先が警察の捜査官であったり、裏社会に半分足を突っ込んだ人物であったりという事情のせいなのか、実名を出していない。これは犯人についても同様である。事実関係をわざとぼかしてあるところもある。犯人の顔写真を掲載しているわけでもないし、もちろんその名前も頭文字しか明かしていない。さらに、本書の文体は事実を追う内容にふさわしくなく、どこか芝居がかっている。

 ネットでは「脳内インタビューじゃないの」という評価も飛び出している。世田谷一家殺人事件では、割と早い時期に犯人を留学生に結びつけるかのような物証が出ていた。その事実を意識した上での捏造(ねつぞう)ではないかというわけだ。

 外国人の犯罪というのは、難しい側面を抱える。特定の犯罪者への糾弾が、その国の人全般への差別へと容易に転化するからだ。

 齊藤氏は本のなかでその危険性を指摘しつつも「我が国には、数千人単位のH(犯人名の頭文字)が、巷を歩いているのである。この国は、凄まじい勢いで、犯罪密集国にとなっている」とも書く。しかしながら、「数千人単位」という数字を裏付けるデータは開示していない。

 だが、その一方で、齊藤氏の示す「事実」を裏付ける事件も起きている。つい最近、6月末に東京・渋谷区で発生した女子大生誘拐事件では、中国人(29歳)、韓国人(54歳)、日本人(49歳)の3人が逮捕されている。主犯の中国人は年齢からして留学生のなれの果てでもおかしくはない。しかも、彼らは「広域強盗団」のメンバーだったとも報道されている。このグループは数十人の構成員が所属するが、一回の犯罪ごとにメンバーを変えたチームを結成するという。まさに本書に登場する留学生犯罪グループと同じ特徴を持っているのだ。

 平成17年度の犯罪白書は、外国人犯罪について、「平成16年における来日外国人による一般刑法犯の検挙件数は3万2087件(前年比17.7%増)、検挙人員は8898人(同2.0%増),特別法犯(交通法令違反を除く)の送致件数は1万5041件(同12.6%増)、送致人員は1万2944人(同14.7%増)であり、いずれも統計の存在する昭和55年以降最多となった」と記述している。

 ちなみに、犯罪全体は、「平成16年における刑法犯の認知件数は、342万7606件(前年比6.0%減)」(同白書)だ。犯罪認知件数は減っている。一方、来日外国人犯罪者の検挙件数は増えているのだ。

 正直なところ、わたしは本書の全てが真実であると断言する能力を持たない。本書の第10章には、齊藤氏が犯罪グループメンバーから聞き出したとする世田谷一家殺人事件の経過が記述されている。この中に、警察発表には現れず、なおかつ現場に残されていた物証と一致する記述が存在するならば、本書の内容は事実であると確認できるだろう。

 日本と異なる残酷の文化
 ここでは、本書の真偽とは別に、二つの視点で本書が示す問題を考えてみたい。

 まず、留学生による殺人事件が示す残虐性だ。

 2001年1月の大分老夫婦殺人事件では、中国と韓国からの留学生が、彼らの身元保証人を引き受けてくれていた老夫婦を惨殺した。2003年6月の福岡一家4人殺人事件では、中国からの留学生が殺した家族の死体を重しをつけて博多湾に投棄した。本書に登場するその他の事件でも、際立つのは「金目当て」という犯罪目的と、それに釣り合わないほどの「残虐性」だ。

 通常の感性なら「その程度のはした金では、殺人は割に合わない」と考える。逮捕されたときの刑罰を考えれば、殺さずに金が奪えればそのほうがよい。もちろん、金額は大きいほどよい。

 ところが彼らは、取るに足らない金のために残酷な殺人を実行した。なぜか。

 本書の著者、齊藤氏は、留学生たちが日本という国に抱く暗い劣等感を指摘している。貧しい母国から日本にやってきてその繁栄を見る。それは劣等感を生み、劣等感は「このような格差を許すべきではない」という意識に転化する。「だから日本人から金品を奪うのは当然の正義だ」というゆがんだ正義が芽生えれば、「日本人に鉄槌(てっつい)を」という「正義の行使」へはほんの一歩だ。

 だが、もう一つ、彼らの残虐性を理解するためには、それぞれの留学生が抱える文化的脈絡も考えねばならないのではないだろうか。

 まず、命の値段だ。日本社会では、「命はかけがえがない」という観念が比較的浸透している。しかし、世界ではそうではない。人など有り余るほどいて、命が安い地域はいくらでもある。

 日本企業の現地進出は、多くの場合「労働賃金が安いから」という理由で行われる。労働賃金とは人生の値段だ。早い話、そういう国は、命も安いのだ。我々が考えるはした金は、彼らにとって十分殺人の動機となり得る。

 もう一つは、それぞれの出身母国における、残虐行為の文化的系譜である。

 一番考えやすいのは中国だ。中華文明は、その精華の素晴らしさと比例するかのように、残虐さの系譜もまた深い。

 古くは「論語」に出てくる、孔子の弟子である子路の最後だ。彼は、衛の国の内乱に当たって「君子は死んでも冠は脱がぬ」と言い残して斬殺されたが、その死体は膾(なます)のごとく切り刻まれて塩漬けにされた。

 あるいは漢の高祖劉邦の妻、呂太后の話。ライバルである戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で声をつぶし、便所に置いて人豚と呼ばせたという。

 これらは、史書の記述であって、単純に事実と信じ込むべきではない。が、そのような話が長く伝えられ、人口に膾炙(かいしゃ)しているということが、中国における残虐の文化的脈絡を形成していることは間違いない。

 それら文化的脈絡と「命が安い」ということが結びつくと、少額の金目当てで、あっさりと残酷な殺人を実行するということになるのではないだろうか。

 おそらく、これら留学生犯罪を理解するためには、内藤湖南以来のシナ学のような、分厚い研究の蓄積を必要とするはずだ。文化の基層からの分析が必要なのである。

 犯罪グループが持つ未来的側面、伝統的側面 もう一つは、留学生犯罪グループが、インターネットで結びつき、犯罪ごとに臨時のグループを形成するという齊藤氏の指摘だ。彼らのグループにはリーダー的地位の者はいるが、絶対ではない。むしろ強大なリーダーが存在しないことが特徴になっているという。

 実はこのような集団の有り様を描いたSF小説が存在する。林譲治氏の「ウロボロスの波動」(2002年)、「ストリンガーの沈黙」(2005年:共に早川書房刊)だ。

 林氏の小説でははるかな未来、天王星周辺を舞台に、外宇宙進出を目指すAADDという組織と地球政府の抗争が描かれる。ここで注目すべきは、林氏が考察したAADDの組織構造だ。AADDは、特定のリーダーを持たない。メンバーは情報機器を利用して緊密に連絡し合い、行く手を阻む問題に対しては、問題解決に最適な能力を持つメンバーが選ばれて表に立つ。「リーダーという偉い地位」ではなく「リーダーという機能を、最適なメンバーがその都度担う」というわけだ。従来の縦型組織構造を持つ地球政府は、AADDへの対応に苦慮する。通常の外交プロトコルが通用しないのだ。

 林氏は、執筆にLinuxを使っていることでも有名な作家で、AADDはオープンソース運動に触発されて思いついたものだとしている。

 しかし、林氏が小説で描いた架空の組織の有り様は、本書の著者が分析する留学生犯罪者グループの有り様とほぼ一致する。

 例えば中国の黒社会の組織ならば、中央に絶対的な権力が存在する。しかし、インターネットで結びついた留学生犯罪者グループは、リーダーがいないという点で、過去の伝統と決別しているのだ。オープンソース的犯罪組織といえるかもしれない。

 その一方で本書「世田谷一家殺人事件」は、彼らが、それぞれの犯罪行為を告白し合うことで組織の紐帯(ちゅうたい)を強化しているということも指摘している。これは、犯罪組織にごく一般的に見られる組織強化の方法である。

 インターネットが実現したSF的なまでに未来的な組織は、同時に秘密の告白と共有という伝統的手法と結びついているのだ。

 我々はよく国際交流とか相互理解という言葉を使う。だが、それらは単に友好的な態度を取るだけでは達成されない。相手の文化を基層から分析して理解しなければ、理解はあり得ないのだ。そしてまた、理解は即友好につながるものでもない。むしろ、理解は、友好と敵対の両方で有用となる。

 留学生犯罪に対して必要なのは、警察力強化だけではない。彼らの出身国の文化に対する深い理解が必須なのだ。(ノンフィクションライター:松浦 晋也)


日経BP(2006-07-12)