山下ゴムとホンダ
=その1=

《 名将 西本幸雄 》

 この5月末から山下ゴムに勤務して半年になろうとしている。工場の「生産改革」、ホンダでいう「体改」が業務である。当初、扱っている製品がまるで違って戸惑いもあったが、新機種の開発プロセスは何も変わらない。これはもうオーソドックスにやるしかないと方針を決め、その計画を役員室に報告した。今将に船出したばかりだ。
 さて、山下ゴムにとってホンダは特別の存在、その生い立ちから、今日に至るまで切っても切れない間柄にある。この3月に創業50年を迎え、盛大なお祝いも行われたた。
 創業者である山下勝最高顧問は10年程前に経営の第一線から退いたとはいえ、まだまだお元気で、大所高所からアドバイスをされている。
 前置きが長くなったが、最高顧問が創業50年を機に自らと今までの経営を振り返って『人の和に如かず』という書物を出版された。この中には皆さんにもお馴染みな方が多く登場するので、いずれ紹介したいと思っている。今日は永年の友「西本幸雄氏」が寄せられた序文である。プロ野球20年間の監督生活で8回のリーグ優勝を果たした、あの名将・西本である。

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    ライバルとして意識し続けていた畏友・山下勝君
                            西本幸雄
 国家総動員法が施行され日本全体が戦時色に染まっていった昭和13年4月、私は和歌山中学から立教大学予科に入学した。入学直前には野球部のセレクションに参加し、受験する中学生で1チームを作って、予科のチームと3試合し、全部勝った。
 この受験生のチームの中に姫路中学出身のの山下勝君がいた。受験組チームには、ほかに内野手の中林正道(立教中学)、2塁手の辻勉(愛知商業)、捕手の伊藤治夫(亨栄商業)、外野手の高橋進(一の宮中学)、後にマネージャーとして活躍した中島正明(関西学院中学)、などの各君ががいたが、入学時から私の意識の中には、常にライバルとしての山下君の存在があった。山下君の出身校である姫路中学が和歌山中学同様に文武両道を重んじる名門校であったこともライバル意識の背景にあったのかもしれない。
 山下君はシュアなバッティングをし、絢爛ではないが堅実な守備をする名手であった。当時の打撃理論では、ボールは前で打てというのが定石になっていたが、彼は現在の野球のように身体を動かさないでボールを迎えるという独自の打撃フォームでカーブを巧打していた。このように走攻守揃った選手として期待をかけられていた山下君は1年の秋からユニフォームを着ていた。私が神宮で初めて出場したのは2年の春からであり、彼に先を越された悔しさがライバル意識をいっそうかき立てていたようにも思う。
 同学年で知徳寮と命名された合宿所には15名くらいが入ったが、山下君は合宿所での生活ぶりも野球のプレー同様に堅実で、学生の本分を違えない勤勉な学生という印象であった。予科の時はクラスが違い、山下君は経済学部のA組でフランス語専攻、私はE組でドイツ語専攻だった。
 A組の連中はまじめでおとなしく、E組にはラグビー、バスケット、サッカーなどの全日本クラスの強い選手が大勢いて、生活面でも羽目を外す連中が多かった。これらの悪友と一緒に浅草や銀座でよく遊んだ。親から仕送りが来ると銀座に出て、一日で使い果たしたこともあった。それに対して山下君はA組を象徴するような学生で、私は彼が浅草や銀座へ遊びに出るのを見たことがない。
 私たちの学生時代は日増しに戦火が拡大し、兵力増大のために徴兵年齢の繰り下げだけでなく、大学生の繰り上げ卒業が行われた時期であった。私たちは誰もが、やがて戦地に赴き散華となる覚悟を持っていた。学校を出たらすぐに戦場なのである。そして明日の命がわからないとなれば、今を思うがままに過ごしたいという気持ちにもなる。だが、山下君はそうしたときに黙々と野球にも勉学にも懸命に取り組んでいた。彼にはかなわない・・・。これが学生時代に山下君に抱いていた私の正直な思いである。
 昭和17年の秋のリーグ戦を前に、私は前年の主将だった好村三郎さんから主将に指名された。先輩は学徒出陣のための9月に繰り上げ卒業となり、最上級生となった私たちのリーグ戦は秋が最初だった。当時、立教大学には専任の監督がいなかった。専任監督がいないのは、六大学では立教だけで、歴代の主将が監督を兼任していた。練習から日常の生活まで、学生による自治という形をとっていたのである。主将の責務は重大であった。
 そうしたこともあって私は主将に指名されたときに、好村さんに「もっと適任な人物がいます」と、主将を辞退したいと話した。適任者として思い描いていたのは言うまでもなく山下君のことである。
 しかし、「主将の人選は皆で決めたことだから断るな」と好村さんから命ぜられ、私は主将を引き受けた。そして就任に際しては、まず山下君に協力を要請したことを覚えている。
 年度が変わって昭和18年春。このときのリーグ戦は戦争がますます苛烈となり、加えて敵性国家のスポーツである野球は自粛すべしという文部省の通達もあって東京六大学野球リーグ戦は中止され各大学間の対抗試合に止めることになった。神宮球場を使用せず各大学のグランドで試合を行ったのである。この年は負け知らずの戦績を収めたが、残念ながら公式の記録には残っていないと思う。
 私たちも、この年の9月に繰り上げ卒業となり、それぞれが戦地へ赴いた。山下君とはそれ以降会うことがなく、戦地に風の便りで朝日新聞社に入社したことを聞いていた。
 再会したのは彼が、朝日新聞社を辞める頃だった。私はノンプロ野球の別府星野組の監督兼選手として都市対抗に出場していたが、試合に赴く途次、博多の駅でばったりと出会ったのである。 「今何をしている?」 二人同時に発した問いに、まず彼がこう答えた。 「朝日を辞めてゴムの仕事をしようと思っている」 当時は、戦後の混乱期で職を得ることは大変で、誰もが生活を維持するので精一杯であった。そうした社会状況の中にあって、天下の朝日を辞めて先行きの定かでないゴムの仕事をするという山下君の言葉を奇異に感じた。学生時代から堅実な人との印象があっただけに、何故との思いも強かったのである。ただ、山下君のことだからそれなりの成算があっての独立だろうと思い、それ以上立ち入ったことは聞かずにそのときは別れた。
 私たちが再会したのは、それから15年以上も経た昭和38年であった。山下君は事業を拡大させて、それまでの自動車用ゴム部品商社から脱皮してメーカーへの転進を計画していた。計画を実現するには多大な資金が必要であり、増資で資金を賄おうと考えていた。その増資新株の一部を私に引受けてもらえないかとの依頼があったからである。
 山下君から山下ゴムの株主になってもらいたいと要請されたとき、私は大毎監督としてリーグ優勝はしたものの日本一を逃して永田雅一オーナーと衝突、大毎を退団して阪急の監督に就任していた。それで経済的に少し余裕もあり、山下君の依頼には躊躇なく応じた。そのときは助けようとか、出資しようという気持ちはまったくなく、一緒に飯を食ってお茶を飲むときの割り勘の感じだった。
 そんな気軽な感じで株主になれたのは、山下君は人生を間違いなく歩く人と、学生時代からの思いが変わっていなかったからである、 私の期待通り、彼はその後も会社を着実に成長させてきた。そして山下ゴムは今春、好業績の中で創立50周年を迎えている。
 山下君との付き合いはすでに60年以上になるが、彼はいまも私の畏友であり、良きライバルである。
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 立教出身の最高顧問が復員後、福助足袋に次いで朝日新聞社に入社した間もない時に出会ったのが早稲田出身の飛田穂洲氏でその後、氏と共に甲子園大会復活のために奔走することになる。先日の「早慶戦」がまた違った感じで思い出された。こうした野球が取り持つ縁はその後も続く。

 次回、山下ゴムに関わりをもったホンダの人々を最高顧問の著書から紹介したい。

記:木田橋 義之(2003-12-29)