早慶戦

 <第1回早慶戦>
 明治34年11月、早稲田大学に野球部が創設された。当時の日本一は一高であった。 これに次いで、横浜外人クラブ、慶應、学習院という順序で駆け出しの早稲田は足元にも 及ばないというのが一般の下馬評であった。
 明治35年春、早稲田は学習院と農科大学に試合を申し込むが、物の見事に大敗を喫した。 以後、猛練習に励んだ早稲田は明治36年に横浜外人クラブと一戦を交え、世間の予想を覆し、 これを撃破した。
 こうして早稲田は、強敵慶應に試合を申し込み挑戦状を送った。 これが早慶が戦を交えた最初で、明治36年秋のことだった。 第1回目は慶應の勝利に終わったが、試合後両チームは今後、春秋一度ずつ互いに手合わせ する事、球場は交代で使用することを約束し早慶戦の歴史がここに始まった。 翌年には早慶両校が当時の覇者一高を破り、日本野球界の覇権を競うようになった。

 <早慶戦の中止>
 早慶戦は年を追うごとに盛んになり、両校の対抗意識も並々ならぬものになってきた。 明治39年、秋季早慶戦第一回戦は戸塚球場で行なわれ、慶應が2対1で勝った。慶應応援団は、 大隈邸門前で「慶應ばんざい」と気勢をあげて引き上げた。第二回戦は三田綱町グランドで行われ 早稲田が3対0で勝った。今度は早稲田が福沢邸門前で「早稲田ばんざい、慶應ザマーミロー」と 叫び、悔しそうな慶應を尻目に引き上げた。

 決勝戦は11月11日、三田で行う事になっていたが余りに興奮した両校応援団の殺気立った空気を 憂慮して、慶應鎌田塾長が早大大隈総長、阿部磯雄体育部長を訪れ協議の結果、遂に第三回戦は 中止される事に決定した。  その後、早大側から早慶戦復活の申し入れが再三なされたが、ならず、これを機に大正11年まで 早慶両校間の一切の対抗競技が中絶された。野球戦に至っては大正14年秋まで実に19年間もの間 早慶戦の空白が続いたのである。

 <最後の早慶戦>
 昭和18年10月16日、早稲田大学戸塚球場で最後の早慶戦が行なわれた。 六大学リーグ戦が中止されたこの年、「ペンを銃に代えて戦場に赴く学生たちの最後の思い出に、そして 出征のはなむけに」と、慶應小泉塾長が早稲田側に言い寄ってきた事により実現されたものである。

 試合は10対1で早稲田が勝利したが、勝敗は問題ではなかった。そして両校の健闘と伝統に対する 祝福のため、最後のエール交換で慶應は「都の西北」を高らかに歌い、早稲田は「若き血」の大合唱で答え 共に近く戦場で戦友となる相手校の学生の将来の健闘をたたえあった。最後の幕切れは、両校学生の歌う 『海ゆかば』が早稲田の杜にこだまし、青春の1ページを閉ざしたのであった。

 <早慶六連戦>
 昭和35年の秋季早慶戦は、両校が優勝をかけて激突した球史に残る六連戦となった。
 第一回戦は2対1で早稲田が勝利し、第二回戦は慶應が4対1で勝った。続く第三回戦を、3対0で早稲田が 制するとこの時点で早慶が同率となり、優勝決定戦を行う事となった。
 優勝決定戦の第一回戦、つまり第四回戦は慶應が1対0と9回までリードしていたが、土壇場で同点とされ 延長1対1の引き分けとなった。第五回戦も引き分けに終わり、迎えた第六回戦。3対1で早稲田が逃げ切り、 奇跡の逆転優勝を成し遂げた。
 この六連戦では、六試合中、五試合を完投した安藤投手の不屈の精神力と気力が大きく称賛された。

記:木田橋 義之(2003-11-21)