柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
(「雑学のすすめ」=Vol.64=より)

 正岡子規の有名な句だが、彼はどんなことをした人なのだろう。 特に俳句においての改革運動が、その主なものだろうが、その話は後で書くとして彼の生涯をざっと追ってみたい。

 彼は1867年、つまり江戸時代最後の年に愛媛県松山市で生まれた。同年の友人に夏目漱石がおり、学生時代からの長い付き合いだった。22歳の時に結核になり、以来ずっと病に苦しむことになるが、喀血する自分をホトトギスが鳴く姿にたとえて、子規(しき:ホトトギスのこと)という号をつけた。

 新聞「日本」の社員として、主にここに文章を掲載した。芭蕉の批判からはじまり、俳句の革新運動を続けた。晩年には後輩の高浜虚子が主催する「ホトトギス」に多く文章を載せ、俳句・和歌の革新運動に勤めた。彼は松尾芭蕉を批判し、当時余り有名でなかった与謝蕪村を絶賛した。
 つまり、子規が言いたかったことは一言で言えば「見たように詠む」であろう。その意味で芭蕉は作りすぎているという。確かに、「柿食へば・・・」の句では、秋、夕方に茶店の片隅などで柿を食らっている子規の様子が目に浮かぶようである。うまそうな柿である。遠くから鐘の音が聞こえてくる。

 因みに、ホトトギスは今でも続いている。平成15年1月号が数えて1273号だそうである。そして、子規は生涯病に冒され続け、35歳という若さで亡くなっている。この若さで亡くなったというのに、その業績の多さ、後代への影響の大きさはすごいとしか言いようがない。

 子規というのは不思議な人である。俳句や和歌のことばかりやっていたかと思うとそうでもない。例えば野球が大好きだったというのは有名な話である。彼の幼名・升(のぼる)をの=野、ぼーる=球にかけて、「野球」という号を使ったこともある。「野球」という言葉は子規が考えたものだと言う説もあるが、これはどうも違うらしい。子規はこの野球好きのおかげで、昨年、野球殿堂入りした。

 子規が考え出したというと、「俳句」という言葉は彼が考えた言葉のようだ。それまでは「俳諧」などと言い、俳句という言葉は使われていなかった。

 私は今回の文章を、司馬遼太郎著「坂の上の雲」の子規を思い出して書いている。この小説は、正岡子規とその同郷の友人秋山真之(さだゆき)、兄好古(よしふる)を主人公として書かれている。秋山兄弟は兄は陸軍、弟は海軍で活躍した人で、特に弟・真之は東郷平八郎の元で参謀を務め、日本海海戦を勝利に導いた人である。明治という時代を大変興味深く読める良著である。

 年頭に当って、私はこの子規が唱えた「写生主義」ということを考えている。飾らず、難しく考えず、見たままに素直に表現する。生活すべてにおいても、それは当てはまるだろう。
 年頭の抱負にしたい。

記:木田橋 義之(2003-01-15)