「トイレットペーパー危機」の歴史 経済学で解明


新型コロナウイルス騒動でマスクはどこも品切れ、トイレットペーパーまで品薄だ。マスクはやむを得ないが、トイレットペーパーの買い占めも中国、イタリアだけでなく、香港やシンガポール、英国、オーストラリアなど世界中で起き、米国では消毒薬から風邪薬、缶詰にまで波及している。なぜこうした買い占めが起きるのか。経済学の理論で考えてみよう。

▼「悪い均衡」のメカニズムとは

参考になるのはゲーム理論の「ナッシュ均衡」。ノーベル経済学賞を受賞した数学者ジョン・ナッシュの理論だ。

トイレットペーパーでいえば、通常は〈必要な人だけが買う〉良い均衡状態がある。だが何かの拍子に「他の人が買いに走れば自分が損する」との不安が高まり、やがて〈誰もが買いに走る〉悪い均衡へと移行する。

一見すると非合理的な行動にも映るが、実は皆が自らの利益を追求した結果の「合理的なパニック」。これこそが今回の騒動の本質だと東大の松井彰彦教授は話す。銀行預金の取り付け騒ぎと同じメカニズムだ。

でも、なぜトイレットペーパーなのか。松井教授によると、買い占め対象になりやすいのは「ないと困るもの」。預金もマスクもそう。「ほかになくて困るものは」との人々の連想がトイレットペーパーに至ったわけだ。

ここで大事なのが情報の役割だ。ある均衡から別の均衡への移行は「他の人々がどう動くか」の予想に左右される。

今回はマスクからの連想に「トイレットペーパーの輸入が止まる」とのうわさやネット上の高値転売、品不足の報道が重なった。これらが「皆も買いに走る」との人々の予想を強め、「自分も買わなければ」との行動に駆り立てた。

▼カギ握る「情報」

「悪い均衡」を「良い均衡」に戻すにはどうするか。「買い占めは意味がないと皆が思う必要がある」(松井教授)。ここでも人々の認識とそれを左右する情報がカギ。その意味で政府が「トイレットペーパーは大半が国内産」「供給体制は万全」と繰り返し訴えるのは正しい対策だ。

ただ人々がこれを信じるかどうかは別問題。人々を説得するにはより強力な情報が必要で、商品が実際に店頭に並び始めてからになりそうだ。

トイレットペーパーの買い占めといえば、石油危機時の騒動が思い起こされる。発端は大阪という。1973年秋、風評を引き金にスーパーに行列ができ、報道で全国にパニックが広がった。物不足の不安がくすぶっていたが、トイレットペーパーに人々が殺到したのは偶然ともいえる。

この日本の騒動は米国にも波及した。テレビの人気番組が面白おかしく取り上げた翌日、スーパーからトイレットペーパーが消えた。供給に何ら問題がないのにトイレットペーパーは数カ月間も入手困難となり、物不足の象徴として記憶に刻まれた。


そして2018年の台湾。カナダの森林火災などを理由に小売業者が値上げの意向を示すと、買い占め騒動につながった。グローバルな原料値上げにもかかわらず、鋭く反応したのは台湾の消費者だけ。トイレットペーパーの買い占めが多分に心理的な要因に負うことを示唆している。

▼経済現象、繰り返しの歴史

行動経済学の大家でイエール大学のシラー教授は、特定のパターンをもつ言説や経済現象が歴史上、繰り返されることを指摘している。例えば「機械が人間の仕事を奪う」との論。さしづめ今なら「人工知能(AI)による失業」だ。これらは時代とともにウイルスの突然変異のように細部を変え、大流行するとシラー教授は言う。

「トイレットペーパーがなくなる」との言説もこの一種だろう。過去のパニックの記憶が不安によって呼び起こされ、時代も国境も越えて広がる。「言説のウイルス」とも言える現象がまさにウイルスへの恐れによって引き起こされたわけだ。

Nikkei Views編集委員 西村博之

nikkei.com(2020-03-15)