なぜホンダは航空機で成功できた ハーバード大の視点

ハーバードビジネススクール教授 ゲイリー・ピサノ氏


世界トップクラスの経営大学院、ハーバードビジネススクール。その教材には、日本企業の事例が数多く登場する。取り上げられた企業も、グローバル企業からベンチャー企業、エンターテインメントビジネスまで幅広い。日本企業のどこが注目されているのか。作家・コンサルタントの佐藤智恵氏によるハーバードビジネススクール教授陣へのインタビューをシリーズで掲載する。まず登場するのは、競争戦略などが専門のゲイリー・ピサノ教授だ。

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佐藤 ピサノ教授は2018年1月にハーバードビジネススクールの教材「未来への飛行:ホンダジェット(Flying into the Future: HondaJet)」を出版しました。このケースを書こうと思った動機は何ですか。

ピサノ 実は「未来への飛行:ホンダジェット」は、私が初めて書いた日本企業のケースです。私自身、ずっとホンダ車を愛用してきましたし、ホンダという会社にも興味を持っていましたので、教材となるような事例をずっと題材を探していました。

ホンダジェットの開発物語を知ったとき、これは本当に素晴らしい教材になると確信しました。1つの事業で大成功を収めた企業が、新たな組織能力(ケイパビリティ)を内部で開発し、別の事業でも成功する――これが可能であることを証明したのがホンダの航空機事業です。このような事例は世界的に見ても非常に珍しく、すぐに教材にしようと思いました。

■どう新しい組織能力を開発したか

自動車製造事業と航空機製造事業。この2つは同じ乗り物なので、互いのノウハウを共有できるのではないか、と思いがちですが、必要な技術、販売・マーケティング手法などは全く異なるのです。つまりホンダは航空機事業を始めるにあたって、知識も技術も、ほぼ何もないところからスタートしなければならなかったのです。こうした中、ホンダは、どのような過程を経て、新しい組織能力を開発したのか、とても興味がわきました。

佐藤 自動車事業と航空機事業は、具体的にどのような点が異なっているのですか。

ピサノ まず技術面で応用できるところはほとんどないといってもいいかもしれません。自動車に翼をつけたら、航空機ができるわけではありません。エンジニアリング、デザイン、システム、信頼度(一定期間、故障することなく使用される確率)の基準も違います。

実際、ホンダが航空機事業に着手しようとした際、多くの人は自動車事業で培った知識や技術を航空機事業にも応用できると期待していたといいます。ところが本格的な研究をはじめて早々に、その前提は間違っていたことに気づきました。結局、すべての組織能力をゼロから築く必要があることがわかったのです。

佐藤 なぜホンダはそのような難しいことを実現できたのですか。

ピサノ まさにそれを授業で議論するのです。実は2019年3月、ホンダエアクラフトカンパニーの藤野道格(ふじの・みちまさ)社長に経営学修士(MBA)プログラムの授業に来ていただいたんですよ。藤野氏はホンダエアクラフトカンパニーのあるノースカロライナ州グリーンズボロからボストンまで「ホンダジェット」で飛んできてくれました。おかげで議論が盛り上がり、ホンダジェットの授業はとても評判がよかったのです。

■イノベーションには長期的視点が必要

授業で藤野氏は、航空機ビジネスという事業機会をどのようにとらえていたか、どのような課題に挑戦したか、などについて率直に語ってくれました。とても印象的だったのは、「イノベーションをおこすためには、長期的な視点で考えることが必要だ」と強調していたことです。

藤野氏は学生に向かって、こう質問しました。「皆さんの中でプライベートジェットに乗ったことのある人はいますか」。すると、手を上げたのは数人しかいませんでした。そこで彼はこう言いました。「20年後、再びハーバードビジネススクールで同じ質問をしたら、おそらく90%の人が手をあげるでしょう」と。

つまり藤野氏が見ているのは20年後の世界。彼が目指しているのは、プライベートジェットをもっと身近な移動手段にすることです。超富裕層や大企業でなくともプライベートジェットを利用してもらえるように、裾野を広げることです。それにはある程度の時間が必要であることも承知の上です。

佐藤 この長期的な視点は、日本企業の特徴でもありますが、学生からはどのような意見が出ましたか。

ピサノ これについては議論が白熱しました。「30年間も1つのプロジェクトに投資し続けるなんて、非合理的だ」という学生もいれば、「結果的に新しい市場を切り開き、新しいビジネスを成功させたのだから、正しい決断ではないか」という学生もいました。

「現在の組織能力」を基準に考えれば、非合理的な判断となりますが、「将来、新たな組織能力を身につけられる可能性が高い」とすると、合理的な判断となります。正しいと主張した学生は、ホンダがもともと持っている社風や組織能力を高く評価していて、「ホンダだからこの投資判断を支持する」と言っていました。また、「投資してみて、結果が出なくとも、学びは残る。だから決して無駄にはならない」と発言していた学生もいました。

■人の力を信じるホンダの経営判断

佐藤 ピサノ教授が特に面白いと思ったのは、どんな話でしたか。

ピサノ これも長期的な視点に関わることですが、質疑応答で、学生から「なぜもっと早く規模を拡大しないのですか。こんなに売れているのならば、もっと最初から増産すればよかったのではないですか」という質問が出ました。すると、藤野氏は次のように答えたのです。

「航空機の生産においては、経験曲線があります。1年目から大量生産をしようとすると、最初に多くの人を雇用しなくてはなりません。でも、2年目、3年目には、知識や経験が蓄積されて、1年目よりも少ない人数で生産することができるようになります。すると、そこに余剰人員が出てしまいます。経済合理性から考えれば、『余剰人員は解雇すればいい』という判断になりますが、それはホンダの哲学に反します。ホンダは、人の力を信じているため、簡単に人員を解雇したりしません。そのため、ホンダジェットについても、最初から大量生産はせず、小さく始めて知識や経験を蓄積させて、少しずつ人を増やしていく方法をとったのです」

これを聞いた学生は「ホンダは藤野社長のような人材を得て幸運だ」と感心していましたが、私も、チームで働いている社員をとても大切にしているリーダーだと思いました。私がホンダエアクラフトカンパニーを取材で訪れたとき、多くのアメリカ人の社員が藤野氏のことを尊敬していたのが印象的でした。

佐藤 藤野氏はなぜ「翼の上にエンジンを置く」というような画期的なアイデアを思いついたのでしょうか。

ピサノ 「これは偶然の産物だ」「たまたまうまくいってラッキーだった」という見方をする人もいますが、私はそうは思いません。藤野氏には、すべての優れたイノベーターに共通する哲学がありました。それは、一見、非合理的に見えるアイデアや誰もがありえないと思うようなアイデアに対して、「本当にそうなのか」と疑ってみるところから始めることです。

■「クレイジー」だと思われても、試してみる

藤野氏は「大学の航空工学の授業で、基礎知識として最初に習うのは『エンジンは翼の上には置けません』ということです」とおっしゃっていましたし、航空業界でそれは実現不可能だというのが常識でした。「翼の上にエンジンを置く」なんて航空エンジニアからみたら、クレイジーなアイデアだったのです。しかし藤野氏は理論的には可能であることに気づき、何度も試行錯誤を重ね、それが可能であることを証明してみせました。

彼は絶対的な常識に果敢にチャレンジしました。ときには「クレイジー」だと思われても、試してみる。それが偉大なイノベーターに共通する特性なのです。


nikkei.com(2019-10-02)