ホンダが挑む伝統破壊 聖域の研究所を再編

ホンダが創業以来の大改革に踏み切った。独立色が強かった研究開発子会社「本田技術研究所」にメスを入れ、二輪は本体と一体化し、四輪なども担当領域ごとに再編した。別会社にしたのは創業者、本田宗一郎氏のアイデア。他社にはない強みだったが、大変革期の自動車業界でその意味が問われていた。伝統を壊すホンダの狙いは何か。

4月2日、桜並木が満開の埼玉県朝霞市にあるホンダの研究所。前日に鈴鹿サーキットでの入社式を終えたばかりの八郷隆弘ホンダ社長の姿があった。

「アサケン」。二輪研究の総本山として世界的に名高いこの場所は、4月から本田技術研究所ではなくホンダ本体の「ものづくりセンター」として再出発した。食堂での社員集会で八郷社長は「全員が一体となり、より魅力的な商品を届けていこう」と語った。

3月まで本田技術研究所には「二輪」「四輪」、発電機などの「パワープロダクツ」の製品別に3つのR&Dセンターがあった。4月の組織再編で二輪は本体の二輪事業本部と統合。四輪とパワープロダクツは機能は変えながらも、それぞれ主に「オートモービルセンター」、「ライフクリエーションセンター」として研究所内に残る。

なぜ二輪は本体に組み込まれたのか。構想は2000年代からあり、10年に東京・青山のホンダ本社にあった二輪事業本部を朝霞に移転したころから検討課題となっていた。

二輪はホンダの祖業で、存在感はなお大きい。18年の世界二輪販売は約2千万台でシェア3割超の最大手だ。売上高は2兆387億円(18年3月期)と四輪の5分の1ながら売上高営業利益率は13.1%と四輪(3.4%)を上回る。

だが近年はインドや中国勢が躍進し、安泰ではない。印大手のTVSモーターは独BMWモトラッドと開発・生産などで組み、安価でブランド力のあるモデルを世界市場に供給。ホンダの牙城を脅かしている。市場動向などビジネス視点での迅速な商品投入がホンダには求められていた。

稼ぎ頭の二輪の競争力低下への危機感は強い。「研究開発を一体化してもっとスピード感を持たなければ」。2月、英国での四輪生産撤退を表明した際、メディアの注目はこのニュースに集まったが、八郷社長は記者会見の場で同時に発表した二輪研究をホンダ本体と統合する意義についても強調していた。

本田技術研究所ができたのは1960年。創業者の本田宗一郎氏による設立趣旨書には「優れた研究成果を生み出すには量産組織とは全く異なった形態の研究機構をもつことが必須」とある。いまも本田技術研究所はホンダから売上高の一定比率を委託研究費として受け取り、成果としてホンダに設計図面を売る。

世界の自動車大手の中でも研究部門を分社化している例はなく、数々のユニークな製品が生まれた。小型ビジネスジェット「ホンダジェット」も一例だ。実用化まで30年近くかかり、現在も事業としては赤字のホンダジェットは、ホンダ本体が細かく収益を管理していれば世に出なかったかもしれない。

ホンダは技術者優位の企業として知られ、社長も技術者から選ぶ不文律がある。八郷社長もブレーキの技術者。ただ八郷氏以外の歴代社長全員が本田技術研究所のトップを経験していた。

本田宗一郎氏と藤沢武夫氏を直接知るOBは研究所改革について「残念だ。研究所の独立性を担保しないとホンダらしさはなくなる」と語る。

別会社ゆえの非効率さもあった。例えば本田技術研究所が用意した金型をホンダ本体が譲り受ける場合でも手続きが煩雑で、同じものを調達したりと二重投資や業務重複があった。斬新な技術を生み出すための別会社化の意義が薄れていた。

四輪はホンダ本体とは一体化せず、従来通りに本田技術研究所として活動をする。四輪でも研究所が技術で主導するだけでなく、マーケティングを含めた本体との連携の重要性は高まっていた。

もう1つ、大きな改革がある。八郷社長が自ら研究開発の担当取締役となった。本体の影響力が強まる構図となる。

四輪事業の置かれた状況は二輪以上に厳しい。18年の世界販売台数は528万台で世界7位。営業利益率は3%と国内8社の下位に沈む。

目下の課題は四輪の収益改善だ。3月14日、東京都内のホテルで開かれた購買方針説明会。25年ごろに発売する主力車「シビック」では他の車種の部品との流用化や一体開発を進めて1台あたりの7割の部品を共通化する方針を示した。

今春の組織再編についてあるホンダ幹部は「二輪と四輪は違う。二輪は世界王者の立場はそう揺らがない。ただ四輪はあくまで商品で選ばれる立場にないとホンダはすぐに消えてしまう」と危機感を隠さない。収益改善のため効率を追求しつつ、どう独自性を高めるか。相反する難しいテーマに向き合わねばならない。

今回の組織再編で先端研究への芽はまいた。

ホンダでは研究開発はR(研究)とD(商品開発)に分けて考える。目先の商品開発で忙殺されていた研究所の役割を見直し、二輪や四輪、パワープロダクツの垣根を越えた研究に取り組む「先進技術研究所」を新設した。「10年後の先をいく先端技術はもっと研究所に自由度を与えながらやる」(八郷社長)

大改革に乗り出す研究所を巡っては近年、ホンダ本体と本田技術研究所の間ですきま風が目立っていた。

ある研究所OBは「技術を仕込んで技研(ホンダ本社)が困った時に助けるのが研究所の本来の仕事。商品化はホンダ本体の仕事のはずだがコスト管理や商品開発も含めて研究所の仕事が増えすぎていた」と語る。

一方、東京・青山にあるホンダ本社の社員は「別会社にしていることで『象牙の塔』でも許される風潮があった。営業側からの提案に対しても成果物が出てこなくなった」と指摘する。

今回の組織再編で研究開発(R)とD(商品開発)に分ける新組織を設けたことについては「Rに注力しやすくなった。ある意味、創業時に近くなったのではないか」(研究所のある埼玉県朝霞市の社員)との期待の声も出ている。

「役に立たないものを作れ」。本田宗一郎氏は1970年から技術陣のアイデア・コンテスト(アイコン)を開いていた。93年まで続いたこのイベントは技術者が殻を破って自由な発想で挑戦することが目的とし、ここで生まれた「1球車」という体重移動で動く装置は後に人型ロボット「アシモ」や移動ロボット「ユニキャブ」などの原型となった。搭乗型移動支援ロボット「セグウェイ」もこの技術に影響を受けたとされる。

「へたに技研と一体感など持つ必要はない」。ある二輪部門の研究所OBはこう言い切る。「技研にのみ込まれて従属的な研究機関になったら失敗だ。普通の会社の単なる技術部門になるだけだ。逆に技研の人間にもっと刺激を与える存在で有り続けなければ」とも話す。

1948年の創業以来の大改革に挑む八郷社長。技術者の意欲をどう高めるか。改革の成否はそこにかかっている。

(企業報道部 古川慶一、為広剛)

nikkei.com(2019-04-23)