「実験は終った」ホンダジェットが空を埋める日

Mr.ホンダジェットの執念(5)

2015年12月9日、米ノースカロライナ州グリーンズボロ。普段はホンダジェットを作る工場の広場に設置したステージに上った藤野道格は、万感の思いで集まった2000人の仲間を見下ろしていた。

■米連邦航空局からの承認

藤野はこの日を待ちわびていた。この前日に米連邦航空局(FAA)からホンダジェットの事業化の許可証である「型式証明」が届いたのだ。たった一枚の表彰状のような紙をもらうために、どれほどのテストを繰り返し、どれほどの書類を書いてきただろうか。

「これが最後」と東京本社と約束し、一発逆転を期して米オシュコシュの航空ショーに出たのがちょうど10年前。当時ホンダ社長だった福井威夫との「沈黙の5分間」の末にゴーサインを得てからも9年という月日が流れていた。

遅々として進まないFAAによる承認作業に、さすがの藤野もいらだちを隠せなくなった。すでに100人以上のお客を待たせているからだ。

■アウェーの戦い

日本企業が米国で航空機の承認を取った例は過去にない。日本では今、三菱航空機のリージョナル旅客機「MRJ」が認証を得るため苦難に直面しているが、米国ではすべてが手探りだ。認証手続きが佳境に入った頃、記者が進捗を問うと藤野はこう答えた。

「ルールを決めるのも、相手チームも審判もみんな米国人。たとえ我々がストライクを投げてもボールと言われてしまう。でも、これは日本人として負けられない戦いなんですよ」

そんな完全アウェーの戦いもついに幕を閉じた。この日の式典にかけつけたのがFAA長官のマイケル・ウエルタだった。藤野も「まさか長官が来てくれるとは」と驚いたが、理由があった。藤野がウエルタからその理由を明かされたのは、式典が始まる直前の控室だった。

■群衆の中にいた長官

「フジノさん、実は私はあの時のオシュコシュにいたんですよ」

「え? 2005年のあのショーに、ですか」

藤野は驚きを隠せなかった。ホンダジェットの運命を変えたあの航空ショー。藤野が映画『十戒』のワンシーンのようだなと思っていたあの黒山の人だかりの中に、当時は民間のIT(情報技術)企業で働いていたウエルタもいたのだと言う。ウエルタはそのIT会社の輸送部門に在籍していたため、たまたま会場にも足を運んでいたのだ。

ステージで藤野に型式証明の賞状を手渡すと、ウエルタはこう宣言した。 「The experimental is over. Go fly!(もう実験は終わりだ。さあ、飛び立て!)」

■おもわぬ理解者

「experimental(実験)」。それは藤野があのオシュコシュのショーで繰り返した言葉だった。「会場ではあくまで実験機だと強調し、事業化をにおわすようなことは一切言わない」。東京・本社からそう命じられていたからだ。ウエルタはFAAの部下から当時のいきさつを聞いていたという。

「もう実験は終わった。その言葉を繰り返す必要はないんだ」。それはホンダジェットの歩みの一ページに立ち会ったウエルタから送られた、藤野への賛辞だった。ウエルタはこの日のスピーチで、30年に及ぶ藤野の歩みを振り返っている。よほど入念に調べたのだろう。藤野が真夜中に思いつき、とっさにカレンダーの裏に描いたホンダジェットのスケッチのことも知っていた。完全アウェーと思っていたが、理解者がいたことに気づかされた瞬間だった。

■息ができない

もう1人、サプライズ・ゲストとして登場したのがサックス奏者のケニーGだった。パイロットの免許も持つケニーGは、数年前にホンダジェットに試乗したいとグリーンズボロの工場に来てくれた時以来、藤野が食事もともにする仲。この日はノーギャラで駆けつけてくれた。

ヒット曲「シルエット」の演奏が終わると、ケニーGは藤野に何かリクエストはないかと聞いた。藤野が求めたのは1992年にリリースされたアルバム「ブレスレス」に収録された「モーニング」という曲だった。

それは藤野がミシシッピに留学した頃に繰り返し聞いた曲だった。先の見えない航空機開発の暗いトンネル。木製の飛行機を炭素繊維に貼り替えるだけの単調な作業が続いていた。「俺はこんな所まで来ていったい何をやっているんだ」。そんな自問自答を繰り返す毎日だった。

「あの頃、僕は本当に息(ブレス)ができないと思うくらいでした。そんな時に聞いていたのがこの曲です。僕の人生にはもう、朝は来ないんじゃないかとさえ思った。いつか朝が訪れて欲しいと……」

■「いつか夜は明けるから」

おえつで言葉がつまり、こらえていた感情が爆発する。ケニーGが藤野の肩にそっと手を回した。

どん底にいた藤野を救ったのはミシシッピで出会った恩師、レオン・トルベだった。藤野はモーニングの音色を聴いている最中、思わずトルベの顔が頭に浮かんだと振り返る。

「本当は飛行機なんてもうやめた方がいいんじゃないかって思うんです」 ある日、飛行機作りを学んだ地下室で本音を打ち明けた愛弟子を、トルベは何度も励ました。「いつか夜は明けるから」

思えば、トルベとの約束を果たせないままになってしまった。今、目の前にあるホンダジェットに真っ先に乗って欲しかった――。そんなことを考えていると、感情が抑えられなくなっていた。

■軍用部門をもつライバル

ホンダジェットは30年の雌伏の時を超えてついに空へと羽ばたく。待ち受ける相手は強敵ぞろいだ。7人乗りの小型ビジネスジェットの市場で直接のライバルとなるのが、米小型機の古豪であるセスナだ。ややサイズが大きい米ガルフストリームも、ホンダジェットに客を奪われれば黙ってはいないだろう。MRJと同サイズの「リージョナル機」を得意とするブラジルのエンブラエルも「フェノム100」という競合機を抱える。

彼らには共通点がある。いずれも軍用機部門を抱えるということだ。セスナは米防衛大手テキストロンの、ガルフは同ゼネラル・ダイナミクスの傘下にある。エンブラエルはそもそもブラジルの政府と軍の全面支援で成長してきた会社だ。軍事目的で研究された先端技術を民間部門に転用できるのは、ホンダにはない強みだ。

■ホンダエアクラフト社長として

では、ホンダの武器はなにか。まずは藤野が航空機業界の常識を覆して実現させた「主翼の上にエンジンを置く設計」だ。3社が作る通常のビジネスジェットは胴体にエンジンを取り付けるため、どうしても胴体の構造がごつくなり、ジェット音も客室に直接響く。

もうひとつの武器が、別動隊である窪田理率いるエンジンチームが作った超小型エンジン「HF120」だ。外販も視野に設計されているが、やはりホンダジェットと最も相性が良い。現時点でホンダジェットは競合機と比べ最高速度や燃費性能でトップとしている。2017年には年間の納入機数で世界一の座を勝ち取った。

■2020年代前半までに黒字めざす

「まだ戦いは始まったばかりです。実際、彼らの反撃も始まっていますから」。一心にジェット機を作り続けたひとりのエンジニアだった藤野は今、ホンダエアクラフトカンパニーの社長となった。販売部門からは、「セスナがホンダジェットから乗り換えれば値引きする、とのキャンペーンを張っている」という情報も耳に入る。藤野は「絶対に負けられない」と語気を強める。

ホンダジェットは2015年末の米国発売を皮切りに、中南米、欧州、東南アジア、中国などで販売し、世界で100機以上が運用されている。日本では昨年12月の1号機からスタートし、生産数は月間4機。2020年代の前半までに同10機にペースをあげ、そのころに単年度黒字を果たす計画だ。

1機の価格は525万ドル(約5億7000万円。年間売上高は単純計算で300億円に満たない。飛行機ビジネスが潤うのは、もう少し時間がたち、定期的な補修ビジネスが発生してからだ。ホンダジェットを育てるためには、自動車ビジネスとは違う長期的視野と胆力がホンダに求められることになる。

■トイレでの遭遇

そんな藤野にはひとつ後悔がある。飛行機作りを夢見た本田宗一郎に、悲願の航空機参入を伝えられなかったことだ。宗一郎は藤野らが極秘裏に航空機の研究を始めた5年後の1991年に亡くなっている。

藤野は入社3年目に一度だけ宗一郎と遭遇したことがあった。研究所のトイレに入ると、なぜかアロハシャツを着たおじさんがいた。ホンダの研究所では今も当時も従業員は白一色の仕事着で統一されている。そのおじさんこそ宗一郎だった。

「実は僕、飛行機の研究をやっているんです」

その言葉をグッと飲み込んだ。藤野らに航空機の研究を命じた川本信彦が「オヤジさんにも言うな」と厳命していたからだ。飛行機好きの宗一郎が聞きつけると居ても立ってもいられず現場介入してくるのが目に見えていたからだ。

■宗一郎の夢から100年

「あの時、宗一郎さんに話しかければよかったなぁ」

その思いを、宗一郎の妻さちに伝えることができたのは、それから20年以上がたった2009年6月のことだった。東京・西落合にある自宅を訪れた藤野に、さちはこう語りかけた。

「主人が生きていたら、どんなに喜んだことでしょうね」。宗一郎からは、少年時代にアート・スミスの曲芸飛行を見て感動した話を何度も聞かされている。さちも2013年、ホンダジェットの凱旋を見ぬまま鬼籍に入った。

宗一郎少年が無心で飛行機に見入った日から100年余り。宗一郎の夢は脈々と受け継がれてきた。

この長い物語はいったんここで終えることにする。だが、世界の空を変えようとするホンダジェットの本当の挑戦は、ここから始まる。

=敬称略

(杉本貴司)

nikkei.com(2019-01-11)