ホンダジェット、エンジン開発者たちのクーデター

Mr.ホンダジェットの執念(4)

ホンダジェットが30年越しの事業化へさまざまな壁に突き当たっていたころ、ホンダの和光研究所(埼玉県和光市)で主要部品であるエンジン「HF120」を開発する一団がいた。今回は連載の主人公、藤野道格(58)から少し離れ、彼らに目を向けてみよう。独創的なものだけが成功するわけではない。ホンダ第1世代と、新しい世代がぶつかり合った。

■無残に砕けた試験機

「西の端で妙な研究をしている連中がいる」。ホンダの和光研究所でこんな噂が流れたのは1986年のこと。ジェットエンジンの研究チームにあてがわれたのは東西に延びる和光研究所の西の端だった。

「当時の僕の仕事は"壊し屋"でした」。チームの一員だった山本芳春(後に本田技術研究所社長)はこう振り返る。ひと口にエンジンと言っても自動車に載せるレシプロ式とジェットエンジンではまるで別物だ。試作したエンジンのテスト担当だった山本の仕事は毎度、数秒で終わった。

「ヒュンと回る音が鳴ったかと思えば、カチャンと止まってしまう。それで終わりです」。テスト設備が本来の性能を発揮することはなく、「カチャン」の音の後には無残に砕けたエンジンだけが残されていた。

■戦闘機用のジェットエンジン

極秘のはずが、ジェットエンジンの開発はまたたく間に研究所で知られることになる。ある時、大音響をたててテスト中のエンジンが爆発する事故を起こしたからだった。

開発が難航する理由はだれもがわかっていた。開発を命じられたのが、あまりに斬新なエンジンだったのだ。

通常のジェットエンジンはガスタービンのブレードを回して推力を出すが、これは2つのプロペラを使う。それぞれを逆向きに回転させる「二重反転ターボプロップ」と呼ばれ、高速飛行が必要な戦闘機で実用化された例があるが、技術的には極めて難しい。しかも、それを当時はまだ目新しかったセラミックスで作ろうとした。

■昔気質の第1世代

無謀とも言える挑戦を強行したのが、航空機研究の初代リーダーに就任していた井上和雄だった。井上は社内では名の知れた技術者だった。二輪車のエンジンバルブを走行状態に応じて切り替える技術を開発、後にホンダの四輪車エンジンの代名詞である「VTEC」につながった功績は多大だ。

一方で、昔気質で短気なことでも知られていた。技術的におかしな点を見つければ上司でも部下でもお構いなしに怒鳴りつける。20代が中心のエンジンチームに、当時50代だった井上にものを申せる雰囲気は皆無だったと言う。

井上にとって「世の中にないエンジン」にこだわるのは当然のことと言えた。それは、創業者の本田宗一郎が井上らに直接植え付けたDNAだからだ。ある時、宗一郎は社員を集めてこんな演説をしている。

■宗一郎の教え、進まぬプロジェクト

「どんな良い技術でも(お金で)買うことはできる。しかし、買った物はあくまで買った物。どんなに苦労してもよろしい。みんなで本当に、自分で考え出したものこそ、尊いんだ」

理想は高いが、気づけばなんの進展もないまま4年間が過ぎていた。「本当にこれでジェットエンジンをつくれるのか」。疑心暗鬼が広がり始めた1990年秋のある日、井上に次ぐエンジンチームのナンバー2、窪田理は部下の泉征彦(現航空機エンジンR&Dセンター品質室室長)に電話した。

「今からプロジェクト4に来てくれ。いいか、こっそり来いよ」

窪田は当時35歳。がっちりした体格と大人びた雰囲気で若手からは「たぬきオヤジ」と呼ばれていた。

■「井上さんには絶対に言うな」

プロジェクト4、略してPR4は研究所の片隅にある普段は誰も使わない会議室だった。大きな机にホワイトボードが一枚。窪田はそこに、泉ら若手技術者4人を集めた。

「このままじゃダメだということはみんなも分かっているはずだ。俺は新しいエンジンをやりたい。確実に回るもの、言ってみればコンベンショナルなものだ」

つまり二重反転プロペラを捨てて「ありきたりなジェットエンジン」をつくる。窪田はすかさず言葉をつないだ。

「ただし、だ。井上さんには絶対に言うなよ」 それが窪田によるクーデターだと、泉はすぐに理解した。窪田からそれ以上の説明はなかったが、井上の理想論を捨て現実を選んだ。

■ばれたクーデター

その日から4人の反逆者たちの隠密行動が始まった。もともと極秘だったジェットエンジンプロジェクトの中に、さらに極秘のチームができたのだ。

4人が入れば手狭になるPR4。その壁一面に図面を貼り付けて英ロールス・ロイスや米プラット・アンド・ホイットニー(P&W)など世界中のジェットエンジンメーカーが公開している設計図や論文などを片っ端から集めて4人で読みあさる。

その警戒線が、あっさりと破られた。だれかがカギをかけ忘れたのだ。開くはずのないPR4の扉が開いた時、極秘メンバーはそこに立つ人物を見て凍りついた。井上だった。

張り詰めた空気のPR4に、井上の靴音だけが響く。井上は壁を埋め尽くす図面に、ひとつずつ目を落としている。

■ナンバー1とナンバー2の対峙

「このエンジンはなーに?」

いんぎんな物言いは、井上が激怒している証拠だということを、4人の反逆児は知っていた。1人が進み出た。「いろいろと勉強しています」。井上は「ふーん」とだけ答えてそのまま部屋を後にした。

「バレちゃったよ!」

うろたえた4人は一部始終を窪田に伝えた。窪田は少し黙ってから「そうか」とひと言だけ答えて黙り込んでしまった。

この後、井上と窪田が直接対峙した。2人は1986年にジェット機プロジェクトが始まる以前から親しい仲だった。ジェット機の極秘計画が始まってからというもの、窪田は常に井上の後ろに控え、疑心暗鬼に陥っていたメンバーを陰ながらまとめてきた。

■多くを語らなかった井上

頼れる右腕によるクーデターに、井上はいったい何を思ったのだろうか――。井上は2016年に他界したが、存命中に記者の取材にこう答えた。「いずれにせよ55歳で辞めようと思っていたから」。井上はそっと身を引き、エンジンチームのリーダーは窪田が取って代わると、ターボファン式の「ありきたりな」ジェットエンジンの開発が正式にスタートした。

窪田が現実路線への方針転換を強行したのには理由があった。ジェットエンジンを事業化するなら、ホンダジェットに載せるだけでなく他の航空機メーカーに外販しなければ採算が取れない。航空機業界には100年近い歴史を持つ欧米の強豪がいる。新参者のホンダが売り込みに走っても、おいそれとは相手にしてくれないだろう。窪田は信頼性の低い二重反転プロペラが受け入れられる余地はないと判断したのだ。

■独力あきらめGEと提携

それから6年後の1996年。米カリフォルニア州のモハーベ砂漠上空での半年にわたる高高度試験に成功したターボファン式エンジンは事業化へと動き始めた。

ちょうど、藤野が航空機計画の打ち切りを言い渡された時期に重なる。ホンダはこの時点では機体を諦め、ジェットエンジンの事業化に目星をつけていたのだ。藤野が相次ぐ開発中止命令にあらがい、活路を見いだしていくのはもう少し後のことだ。

窪田はジェットエンジンの事業化に向けてパートナー探しに奔走していた。井上ら創業世代がこだわっていた「独力」の旗も降ろしたのだ。ジェットエンジンを売るなら経験のあるパートナーの協力が必要だと考えた。

2004年2月、ホンダは世界のジェットエンジン3強の一角である米ゼネラル・エレクトリック(GE)との提携を発表した。

■倒れたリーダー

窪田の身に異変が起きたのはこの直後のことだった。ガッチリした体格の窪田がみるみると痩せていく。精密検査をすると、膵臓(すいぞう)がんに冒されていることが発覚した。

死を覚悟した窪田は弟分としてかわいがってきた泉に告げた。「みんなを集めてくれ。伝えたいことがあるんだ」

「軽井沢の集い〜ある技術者の思いと生き様」。泉は窪田の薫陶を受けた技術者たちにこんな題名の招待状を送った。最後にもう一度、エンジンチームの一同で窪田の思いを受け止めようというメッセージだった。

2007年9月6日。超大型の台風が迫り、激しい雨が地面をたたきつける。泉たちは軽井沢のホテルで窪田を待った。窪田は夫人の運転でなんとか軽井沢についたものの、ベッドから起き上がることができない。すでに最後の言葉を仲間たちに伝える力は残っていなかった。泉が部屋を訪れると、窪田は声を絞り出した。

「もう寝る。さようなら」

それが師匠との最後の会話となった。

■2つのエンジン

翌日、和光研究所では新開発のターボファン式ジェットエンジン「HF120」が産声を上げていた。テスト成功の報告を受けたエンジンチームの幹部はすかさず窪田の自宅に電話を入れた。

受話器を取った妻のちい子は、窪田がすでに会話ができない状態だと伝えた。それでも伝えたい。

「奥さん、お願いです。今から俺が言うことをそのまんま窪田さんに伝えて下さい。HF120の初組みテスト。今日、一発で定格が出ました。一発で出たんです!」

しばらくの間を置いてちい子が答えた。「今、主人がうなずきました」。翌日、窪田は息を引き取った。52歳だった。

翌週。窪田の亡きがらを乗せた霊きゅう車が、斎場に向かう前に和光研究所に立ち寄った。出迎えた「西の端」のメンバーが頭を下げて黙とうする。

メンバーの前には2つのエンジンが置かれていた。ひとつは窪田がクーデターで葬った二重反転プロペラ。もうひとつが、「ありきたりのエンジン」だった。窪田が断腸の思いで井上を裏切ったことを、チームの誰もが知っていた。

■宗一郎氏のもう一つの言葉

生前の井上は、取材にこうも答えていた。「みんなのことを子どものように思っていました。その子どもたちがとうとうやってくれた。もう、うれしいという言葉以外になんにもないよ」。恨み節はひと言もなかった。

実は本田宗一郎は著書でこうも語っている。「人間を根底としない技術は何も意味をなさない。あくまで人間様が買ってくれる品物をつくりだすことが、人間に奉仕する品物をいかにつくるかが、我々の課題だ」

独創性と同じように、ビジネスとして着地させるための柔軟性も大事。窪田たちの苦心を井上は理解していたのだろう。

2人のエンジニアが魂をぶつけ合って生まれたジェットエンジンは今、ホンダジェットの翼の上で轟音(ごうおん)を奏でている。

=敬称略、つづく

(杉本貴司)

nikkei.com(2019-01-10)