飛べないホンダジェット 敵はホンダの中にいた

Mr.ホンダジェットの執念(3)

「ミスター・ホンダジェット」の藤野道格(58)が最後の賭けに出た。会社がホンダジェットの事業化を認めないというなら、認めさせるまでだ。藤野がそのための手段と考えたのが、ある航空機ショーだった。

■「あくまで実験機」の条件

米ウィスコンシン州で毎年夏に開かれるオシュコシュ航空ショー。パリや英国ファンボローで開催される国際的なショーと違い、飛行機好きが集まるお祭りといった感が強い。ここでホンダジェットをお披露目しようと考えたのだ。

「なぜ今更。ホンダがジェット機を事業化すると勘違いされたら迷惑だ」。

案の定、東京・青山の本社からは反対する声が聞こえてきた。そこで藤野はある約束と引き換えに出展を認めてもらえるよう懇願した。

「会場ではあくまで実験機だと強調し、事業化をにおわすようなことは一切言わない」。こうもつけ加えた。「これで航空機はやめます。最後にチームの労をねぎらうためにも一般公開させてください」

■「十戒」のような登場

もちろん腹の中は違った。航空機産業に疎いホンダ本社の人間には分からないかもしれないが、ビジネスジェットの世界でオシュコシュの影響力は絶大だ。ここで話題となれば道が開けるかもしれない。藤野はそう考えた。

「さあみんな、シビックとアコードのホンダが今日は空から降りてくるぞ!」。2005年7月、場内アナウンスでDJが叫ぶと青天の中からホンダジェットが降りてきた。着陸し、滑走路から発表会場までをゆっくりと動き始めると、黒山の人だかりができる。人の山がサーッと左右に分かれてホンダジェットが記者会見場に登場した。

「なんか、映画の『十戒』みたいだな」

壇上からその様子を見た藤野はあっけにとられていた。ホンダジェットが藤野の隣に到着すると、人の波が押し寄せてくる。

「皆さん、これが私たちが作ったホンダジェットです」

こう宣言すると拍手が起きる。だが、藤野の言動には東京・青山本社が目を光らせている。一言、つけ加えざるを得ない。

「あくまで実験機です」

■見物客の中にいた人物

藤野は話し終えるなり地元のメディアに取り囲まれた。質問が集中したのが「いつ発売するのか」だったが、ここでも藤野は「実験」と繰り返さざるを得ない。それでも質問攻めはやまない。

藤野がチラリと横目で見ると、ホンダ関係者が見物客に取り囲まれている。その中にいたのが川本信彦だった。1986年に「家族にも極秘」と告げて藤野らに航空機の研究を命じた張本人。1996年にプロジェクトが打ち切られると藤野の「直訴」を受けて開発を存続させた人物だ。

その横にいたのが長年にわたって米販売法人のアメリカン・ホンダ、通称「アメホン」のトップを勤めた雨宮高一だった。ふたりともすでに第一線から身を引いていたが、アメホンの一般社員に混じって見物客の質問に答えていた。

■福井の迷い

この事が大きな意味を持つことになる。ホンダの生命線は今も当時も米国だ。航空機の本場も米国。その販売の最前線を担うアメホンにとって、ホンダジェットはF1に替わる広告塔になり得る。元社長でF1チームを率いた経験のある川本や、雨宮がそんなことを話し始めたことでホンダジェットを取り巻く社内の雰囲気が変わり始めた。

ホンダジェットの開発はすでに一段落している。あとはのるかそるか――。当時社長だった福井威夫は迷っていた。福井は二輪畑が長いが、実は90年代末に前任社長の吉野浩行から「密命」を受けたことがあった。「21世紀にホンダのブランドを再構築するには何が必要か」

福井がひそかに目を付けていたのが当時、川本への直訴で藤野が命脈をつないでいたホンダジェットの存在だった。

2000年代半ばは、新興国の爆発的な経済成長を追い風に、日本の自動車メーカーの海外生産が国内生産を逆転した時期と重なる。日本車メーカーは輸出主導だったグローバル展開にいよいよ本腰を入れ始めていた。

好調な業績の影に隠れるように、ホンダには内なる停滞がじわりと押し寄せていた。「大企業病」というジレンマだ。

米環境規制を逆手に低公害型の「CVCCエンジン」で世界をあっと言わせた70年代。いち早く米国の懐に飛び込んで飛躍的な成長につなげた80年代。今で言うSUV(多目的スポーツ車)の「RVブーム」にスポーツタイプのミニバンで挑んだ90年代――。常にライバルの「先」を攻める後発メーカーらしい挑戦を繰り返してのし上がったホンダが、気がつけばトヨタ自動車や日産自動車とたいして変わらない安定志向のクルマ作りに安住していた。

そもそもホンダは社名に「自動車」を冠していない。時代が求めるモビリティーの形を追いかけ続けることを言外に示してきたはずだ。

創業者の本田宗一郎が作った湯たんぽを燃料タンクにして自転車を改造したエセ・オートバイ、通称「バタバタ」から始まり、常に形を変え続けてきたはずのホンダの「モビリティー」の形。それがいつの間にか、数ある自動車メーカーのひとつという地位に納まっている。

ホンダはここで立ち止まるのか――。社内的には航空機という傍流中の傍流を歩んできた藤野が福井に突きつけたのは、そんな根源的な問いと言えた。

とはいえ万が一、墜落事故でも起こされればホンダブランドにとって取り返しのつかないリスクにもなり得る。「ジェット機は、果たして本当にホンダが手を出してよい事業なのか」。福井は迷っていた。

■沈黙の5分

2006年3月、藤野は迷う福井に勝負をかけた。持参した資料を前に航空機参入のビジネスプランを説いた。機体の特徴、販売網の構築、保守管理ビジネス――。もう何度も説明してきた内容だった。福井はじっと耳を傾けている。

藤野は覚悟を決めた。目の前に座る福井の目をじっと見つめると突然、説明をやめて黙り込んでしまった。藤野が選んだ最後の口説き文句。それは沈黙だった。

藤野の沈黙に、福井も沈黙で応えた。互いに目を伏せている。時の流れが止まり、その場から音が消えてしまったような錯覚に陥る。「5分ほどだったように記憶している」。2人ともこう証言するが、「もっと長かったようにも思えた」とも口をそろえて話す。

「極秘だから」と言われて航空機の研究を命じられてからすでに20年。藤野はここまでの道のりを思い返していた。

「あの時、電動パワステの開発を続けていたら、俺なら今ごろどんなクルマを作っていただろう。子どもの頃に憧れたミスター・スカイラインの桜井真一郎さんみたいになれただろうか。チームのみんなも、こんなことをやってなければ今ごろどんな活躍をしてくれていたことだろうか」

■「これで行くか」

一方の福井もまた、研究所の片隅で細々と妙な研究を続けている連中の面々が頭に浮かんだと言う。ジェットエンジンを積んだクルマを見せられた時には、「ヒューン」という間抜けな音を聞いて思わず失笑してしまった。ジェットが研究所で爆発して大騒ぎになったこともあった。

互いに時が止まったように言葉をなくした。沈黙を破ったのは、福井だった。

「これで行くか」

藤野が言葉の意味を理解できないでいるのを見て取ると、福井は短く続けた。「そういうことだ」

社内で「金食い虫」や「夢物語」と陰口をたたかれたホンダジェットの事業化が決まった瞬間だった。福井が部屋を後にしても、残された藤野は立ち上がれずにいた。「本当に世界が変わった気がしました。これって現実なのかなと、何度も思いました」

■約束を果たした紳士

それから半年余り後の2006年10月。米フロリダ州オーランドで開かれた全米ビジネス航空協会の展示会。ビジネスジェットでは世界最大となる商談会に、藤野はホンダジェットを出展した。オシュコシュの時とは違い、今回は堂々と受注開始を宣言できる。

フロリダで藤野を待っていたのはメディアだけでなく多くのお客だった。商談用テーブルでは対応しきれず、福井のために用意した社長控室を急きょ商談ルームにあてがった。

「やあ、フジノさん」。会場を足早に移動する藤野を、背後から呼び止める声がした。振り返ると米国人の男性が立っていた。ただ、誰だか分からない。

「忘れたかい。あの時、バハマで君の飛行機を買うと約束しただろう」

その一言で思い出した。あの失意の初飛行の後に休暇先のバハマの朝食で「ホンダジェットが発売されたら必ず買う」と言ってくれた男だ。もう3年前のことになる

■「サンキュー」ほおを伝う涙

「本当に買いに来てくれたのですか!」

「そうだ。約束しただろう」

あまりに突然の出来事に、藤野はその男の名を思い出せない。ただ、涙がほおを伝うのが分かった。どん底だったあの時、「約束だ」というこの紳士の言葉にどれだけ励まされたか――。この後、藤野は何を話したかは覚えていないと言う。ただ、「サンキュー」を繰り返したことだけはかすかに記憶している。

=敬称略

(杉本貴司)

nikkei.com(2019-01-09)