なぜ設楽悠太は東京マラソンで日本新記録を樹立し
1億円をゲットできたのか


 2位の設楽悠太(26、Honda)が2時間6分11秒の日本記録でフィニッシュすると、プレスルームでは拍手が沸き起こった。5位(日本人2位)の井上大仁(25、MHPS)も2時間6分54秒で走破。同一大会で複数の日本人選手が2時間6分台をマークしたのは初の快挙だった。合計9名もの日本人ランナーがサブ10を達成するなど、東京マラソン2018は日本陸上界にとって歴史的なレースになった。

 従来の日本記録は2002年10月のシカゴマラソンで高岡寿成(現・カネボウ監督)がマークした2時間6分16秒。今回の東京マラソンで約16年ぶりに日本記録が更新されたことになる。

 前日本記録保持者となった高岡は、「タイムには気候、ペース、ライバル、調子など様々な要素が絡んできます。それらが一致したときに、素晴らしい記録がでる。今回、日本記録が誕生した一番の要因は、先頭グループでレースを進めることができたことだと思います」と分析した。

 今回のレースを細かく見ていくと、設楽が日本記録まで到達できた様々な理由が浮かび上がってくる。まずは天候に恵まれた。10時の気温は6.0度。日差しがなく、風もほとんどなかった。市民ランナーにとっては少し肌寒かったが、トップランナーにとっては絶好のコンディションだった。

 前回覇者で世界記録(2時間2分57秒)の奪回を目指していたウィルソン・キプサング(ケニア)の体調が良くなかったことも設楽にとってはプラスに作用した。今回はファーストのペースメーカーがキロ2分54〜55秒(2時間2分22秒〜3分04秒ペース)、セカンドがキロ2分58秒(2時間5分11秒ペース)、サードがキロ3分00秒(2時間6分35秒ペース)に設定されていた。しかし、キプサングが精彩を欠いたため、ファーストのペースメーカーは予定通りに進まなかった。逆にセカンドのペースメーカーは1万mの日本記録保持者・村山紘太(旭化成)が務めたこともあり、ペースが安定していた。

 日本記録の更新を狙っていた井上はファーストについたが、設楽はセカンドの村山につく。この“選択”が吉とでた。ファーストのペースメーカーは波があり、村山らは12km付近でトップ集団に追いついた。設楽は12kmまで井上と同じタイムで走ったことになるが、無駄な脚を使わずに済んだ。キプサングは15km過ぎに集団から脱落して、途中棄権。村山は20kmでペースメーカーの役目を終えたが、設楽はトップ集団にいたため、20〜30kmまではファーストのペースメーカーの力を利用することができたのだ。

 先頭は中間点を1時間2分43秒で通過すると、30kmは1時間29分20秒。ペースメーカーが外れた後の対応も井上と設楽は違っていた。海外勢に食らいついた井上に対して、設楽は無理についていくことはなかった。給水後に引き離されたときは、「負けたな」と感じたものの、32km付近で両親の声援が届くと、盛り返す。38.3kmで井上に並び、前に出る。そして井上を引き離した。39.8kmでロンドン世界選手権5位のギデオン・キプケテル(ケニア)をかわすと、40.5kmで2時間5分43秒のタイムを持つアモス・キプルト(ケニア)を抜き去り、2位に浮上。40kmの通過は1時間59分31秒だったが、設楽は正確なタイムを把握できなかったという。

「 日本記録の感触はなくて、無でしたね」というが、最後の約2kmは、家族の準備した給水ボトルを腕に巻いて激走した。

 「42kmの通過が2時間5分40秒を切ったくらいで、本当にギリギリだったので、そこからは思い切っていきました」と猛スパート。最後はトラックレースのような軽やかな走りで駆け抜けると、ゴール手前で日本記録を確信。ひとさし指を天に突きさして、歓喜のゴールに飛び込んだ。

 日本実業団連合は日本記録を樹立した選手に1億円の報奨金をだすマラソン強化プロジェクトを実施しており、設楽は1億円をゲット。他にも大会の賞金として400万円(2位)、タイムボーナスで500万円(日本記録)を獲得したことになる。

 レースを見つめた瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは、「やっとこれで日本のマラソンがスタート地点についた。日本記録はめでたいですけど、まだまだ世界記録とは3分以上の差がある。でも日本記録が誕生したことで、大迫君も2時間5分台を出してやろうという気持ちになったと思います。そういう競争意識が芽生えてくれば、日本人も5分台は当たり前、4分台も見えてくるんじゃないでしょうか」と大喜びだった。

 河野匡長距離・ マラソンディレクターは、「昨年も設楽君と井上君は同じようなシチュエーションで戦いました。今回は井上君が日本記録を出そうという意識でやったことが、設楽君の力を引き出したと思います」と好敵手となった井上の走りも評価した。

 設楽は昨年9月にチェコでハーフマラソンの日本記録を10年ぶりに塗り替える1時間0分17秒を樹立(1週間前には10kmレースにも出場)。その1週間後のベルリンマラソンでは2時間9分03秒の自己ベストで6位に食い込んでいる。日本マラソン界の常識でいうと、ハーフマラソンで日本記録をマークした1週間後に、フルマラソンでも好タイムを残すことは考えられなかった。不可能を可能にしたのが、疲労の蓄積が少ないといわれる、ナイキの厚底シューズだ。設楽は昨年9月から、ナイキ ズーム ヴェイパーフライ 4%を履いて、連戦でも快走を続けている。新シューズが登場したタイミングも設楽にとって絶妙だった。

 2018年はニューイヤー駅伝4区で区間2位の井上に34秒差をつけて区間賞を獲得。1月21日の都道府県駅伝では最終7区でぶっちぎりの区間賞を奪い、優勝ゴールに飛び込んだ。

   2月4日の丸亀ハーフマラソンは悪条件のなかで1時間1分13秒の2位(日本人トップ)。2月11日の唐津10マイルも完勝した。いずれもナイキの厚底シューズを履いて、「全力」で突っ走っている。

 「昨年9月から日本人選手には負けてないので、マラソンでも負けるつもりはありませんでした。40kmをベースにマラソン練習をする選手が多いですけど、僕は30km走までです。最近の選手は走り込みが足りないという意見を聞きますけど、そんな時代ではありません。いいシューズを選び、効率よく練習することがマラソンで結果を残すための近道だと思っています」

 設楽は日本の実業団選手がベースにしている40km走には否定的な意見を持つ。だからといって走り込みをしていないわけではない。週に1回は30km走を入れている。ペースはキロ3分30秒と速くないが、試合のある週でも、レースの3日前には30km走を行うなど、総合的に距離を踏んできた。しかも、レースを全力でこなすことによって、自分を追い込み、経験値も上げてきた。そして、マラソンの日本記録まで到達した。

 「僕のなかではこれが限界だったので、課題も反省点もないですね。この先も30kmまでしか踏まないですけど、レースに出場することでカバーできると思っているので、自分のスタイルを変えるつもりはありません」

 瀬古リーダーの口癖でもある「最近の選手は走り込みが足りない」という言葉とは異なるアプローチになるが、「ペース配分など、あまり先を考えないで走れる。恐れを表に出さないところが凄い。我々が持っている常識とは違う。そこが彼の強みですね」と瀬古リーダーも設楽のチャレンジを絶賛した。

 2度目の優勝を飾ったディクソン・チュンバ(ケニア)の背中に近づくことはできなかったものの、設楽はリオ五輪銀メダルのフェイサ・リレサ(エチオピア)ら世界大会でも活躍する2時間4〜5分台ランナー5人に先着。メジャーレースとなったTOKYOで2位に食い込んだことは高く評価してもいい。今回はいくつもの要因が重なり、設楽が日本記録を塗り替え、井上も日本歴代4位の好タイムでまとめた。昨年12月の福岡国際では大迫傑(Nike ORPJT)が快走した。25〜26歳の選手たちが世界レベルに急上昇しつつある。2020年東京五輪に向けて、日本マラソン界に明るい光が差し込んできた。

 (文責・酒井政人/スポーツライター)

thepage.jp(2018-02-26)