ホンダもぶつかった航空機参入の壁

 ホンダの小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」の2017年の納入機数が、機種別で初の年間首位となった。15年末に事業化して以降、順調に納入数を伸ばしてライバルの米セスナの主力機「サイテーションM2」を上回った。日本の航空機では開発遅延に苦しむ三菱重工業のリージョナル機「MRJ」との明暗が分かれたように見えるが、ホンダも航空機参入という高い壁にぶつかってきた。

 ホンダと三菱重工では航空機参入に至る時間軸が大きく異なる。

 ホンダは1986年に極秘裏に航空機とジェットエンジンの開発に着手した。実際に航空機の開発を経験した技術者は皆無でゼロからのスタート。それでも独自技術にこだわるあまり開発は迷走した。

 2006年に当時社長の福井威夫氏が事業化を決めるが、この時点までに2度の開発中止の危機を迎えていた。1度目は1990年代半ば。チームは半ば解散状態となったが、後にホンダジェットの開発責任者となる藤野道格氏が当時社長だった川本信彦氏に直談判して「事業化を前提としない研究目的なら」という条件付きで命脈を保った。2度目は2003年。ホンダジェットは初飛行を果たすが、藤野氏は当時の上司から「この先はない」と明言される。

 ホンダジェットの最大の特徴は主翼の上にエンジンを置く独特の設計にある。胴体にエンジンを取り付ける通常の設計と違って、室内空間を広く取れて飛行中も騒音が小さい。藤野氏が1934年に書かれた流体力学の講義録から着想を得たものだが、周囲からは理解されず、藤野氏は上司から「こんなバカなエンジニアは見たことがない」と面罵されたと振り返る。

 ところが航空機の本場、米国の学会などで評価を得たことなどでホンダ社内での風向きも徐々に変わった。当時のホンダがF1に変わるブランドイメージのけん引役を探していたこともあり、06年に事業化のゴーサインを得た。この時点ですでに開発着手から20年が過ぎていた。

 同じ頃、三菱重工でも航空機参入に向けた機運が高まっていた。同社は2002年に経済産業省が提案したジェット機開発の推進事業に応じる形で開発を本格化させ、08年に事業化を決めている。初号機顧客の「ローンチカスタマー」として当初からANAホールディングスが受注を決めるなど、上々の出だしに見えたが、そこからは苦難の連続だった。

 当初は13年に初号機を引き渡す計画だったが、5度にわたる開発遅延で現在は7年遅れの20年の引き渡しをめざしている。1月には米イースタン航空から初となる受注キャンセルを突きつけられるなど、逆風が強まっている。

 現時点だけを切り取れば、ホンダジェットとMRJでは明暗がくっきりと分かれた格好だが、ホンダジェットも06年の事業化決定以降は現在のMRJの姿と似ていた。

 当初は「3〜4年で米当局から認証を取り付けて10年内に初号機を引き渡す」との青写真を描いていたが、量産型の設計に時間を要した。10年末にようやく量産型ホンダジェットの初飛行にこぎ着け、12年の引き渡しをめざした。

 だが、米当局との折衝に予想外の時間を要することになる。航空機は生産拠点を置く国で事業化に必要な型式認証を取ることになるが、日本企業が米連邦航空局(FAA)から認証を得た経験はない。遅々として進まない作業に当時、藤野氏は「日本人として負けられない戦いだと思ってやっていますよ」と苦しい内情を明かしたことがある。

 米ノースカロライナ州の工場にはFAA関係者専用の駐車場を作るなどして当局との関係構築に腐心した。結局、ホンダジェットが認証を得たのは、当初計画から5年遅れの15年末だった。開発スタートから実に30年近くが過ぎていた。

 そもそも同じ航空機と言ってもホンダジェットとMRJでは全くカテゴリーが異なる。7人乗りのホンダジェットはビジネスジェットの中でも最も小さい「ベリー・ライト(超小型)」に分類される。定期路線ではなく個人や企業が所有するのが前提だ。

 一方のMRJはリージョナル機と呼ばれる。米ボーイングの大型機などと比べ機体は小さく米国などでは都市間の飛行に使われるが、こちらは定期便が主体で客席も最大92席とホンダジェットとはケタが違う。当然、設計の複雑さも全く異なる。両者を比較すること自体がナンセンスと言えるだろう。

 ただ、2つの航空機の開発過程には決定的な違いも存在する。ホンダは機体もエンジンも1986年の着手から一貫して同じ責任者の下で着実に開発計画を前進させてきた。ゼロからの出発だけに時間をかけてでもノウハウを蓄積させる道を取ったわけだ。

 一方の三菱重工は事業主体である子会社、三菱航空機のトップを次々と入れ替えている。その起用法には疑問も残る。例えば前社長の森本浩通氏は発電プラントの出身。米国駐在から帰国して航空機子会社への転出を命じられたが、全く知見のない分野だけに当時から「正直、何の準備もない状態で驚きを隠せなかった」と漏らしていた。

 三菱重工は昨年、防衛・宇宙事業を率いてきた水谷久和氏を三菱航空機に送り込んだ。三菱重工の宮永俊一社長は「体制を一新する」と説明し、商用化に向けて背水の陣を敷く考えを示した。

 互いに曲折を経て航空機参入という高い壁に挑んだホンダと三菱重工。航空機は自動車と比べても関連産業の裾野が広く、中小製造業への恩恵も大きいとされる。ホンダジェットに続きMRJの奮起も期待される。

(杉本貴司)

nikkei.com(2018-02-22)