70歳のホンダ、再起動へもがく

 ホンダが再起へもがいている。狭山工場(埼玉県狭山市)の閉鎖を決め、国内の生産能力は2割強減ってスズキやマツダを下回ることになる。成績低迷が続くF1ではドライバーから批判された。革新的で若々しいイメージは米テスラなどに取って代わられ、日本では「軽とミニバン」の印象が定着しつつある。2018年で設立70年を迎えるホンダはどこに向かうのか。

■軽とミニバンばっかり

 10月4日午後3時30分、狭山工場の従業員に集合がかかった。「寄居工場(埼玉県寄居町)に集約する。雇用は保つ」。社内のテレビ放送で工場閉鎖を伝えられると、従業員は淡々と持ち場に戻った。「意外とみんな冷静でしたよ」。働き始めて半年の若い従業員は少し驚いたが、そんなものかと塗装の作業を再開した。

 50年もの狭山工場の歴史に幕が下りる。それでも従業員の動揺が小さかったのは「ずっと言われていたことだった」(エンジンを担当する50代の従業員)からだ。

 狭山工場はミニバンの「オデッセイ」や「ステップワゴン」のほか「レジェンド」「ジェイド」「フリード」をつくっている。生産能力は年25万台。寄居工場や鈴鹿工場(三重県鈴鹿市)と合わせた生産能力は計100万台あるが、稼働率は80%。狭山は老朽化が進み「手作業も多く残っているのでラインもよく止まっている」(従業員)ため、生産性も上げにくい。

 ホンダの有力OBは「もはや国内で数を追っても仕方のないことだ」とあけすけに語る。一方で首都圏の販売店幹部は、「軽とミニバンばっかりになってホンダを去ったお客さんは確かにいる」と悔しがる。結局のところ、世の中に驚きを与えるような新たなヒット商品が足りなかったのだ。

 身の丈を縮めるのは日本に限らない。タイではアユタヤにある完成車工場の1ラインを休止し、ブラジルのサンパウロ州にある1つの工場は未稼働のまま。日本を代表する「クール」なブランドだったはずのホンダ。狂いが生じたのはなぜだろうか。

■拡大のツケ

 「1台の特別なフィットがあった」。ホンダに詳しい関係者はこんな説を唱える。ホンダが13年から14年にかけて5度のリコール(回収・無償修理)を繰り返した「フィットハイブリッド」は、変速機などを制御するプログラムの不良があった。「低燃費世界一」を狙ったが、複雑な機構が災いして不具合が続発した。

 だが発売前に当時の社長、伊東孝紳が試乗した車に問題はなかった。関係者は「技術者が入念に整備した車だったからだ」と話す。社内向けに特別な1台にチューニングする一方で、完成度に詰めの余地を残したまま市場に投入してしまったことになる。技術者が神経質なまでに忖度(そんたく)するほど伊東の存在感は大きかった。

 その伊東は12年、世界販売を17年3月期までに1.5倍の600万台に引き上げる構想と「世界6極体制」を掲げた。

 規模を追求しトヨタ自動車など世界大手の背中を追ったが、結果は失敗だった。それぞれの「極」が別々の要請を出した結果、開発部門などの現場に過度の負荷がかかった。兵站(たん)が伸び、魅力的な商品や技術を生み出せなくなった。

■「厳しさが足りない」

 伊東の後任が15年に就任した八郷隆弘だ。伊東は雑誌のインタビューで「現場のフィードバックを受け止める体制が弱かった」と認めた。だからこそ、温厚な八郷に後事を託したのかもしれない。

 それから2年。米国や中国市場、2輪事業が貢献し業績は堅調だが、物足りなさを指摘する声は多い。

 「パワーが足りない」。今年8月、ホンダがF1エンジンを提供しチームを組むマクラーレンのドライバー、フェルナンド・アロンソの発言が報じられた。F1撤退もささやかれるホンダがどう反応するか注目があつまった。

 10月8日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれたF1日本グランプリには、ファンのサインに笑顔で応じる八郷がいた。レースの結果は11位と14位。お膝元のレースでも入賞できなかったが、八郷は「レースはホンダのDNA。ずっと続ける」と長期的に続ける意向を示した。

 ナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹は「厳しさがたりない」と指摘する。巨額の資金がいるF1を継続するか否か。成績低迷の今期は一つの節目だった。狭山工場をはっきり「閉鎖」といわず、「寄居工場に集約」と明言を避けるところも「社内の引き締めにはマイナスだった」(中西)と映る。

 八郷も伊東と同じ技術畑だ。入社して完成車テストの仕事を希望したが配属はブレーキの設計。「少し効かないだけで怒られる割に合わない仕事」(八郷)だったが、マネジメントの基礎を学んだ。その後は車種の開発に携わり、米国版オデッセイの開発を手がけた。購買担当役員や中国駐在など幅広い役職を経験したものの、ホンダの社長コースである研究開発子会社、本田技術研究所の社長を務めていない。

 社内でも知名度がそれほど高くない八郷は、一部の社員からは軽く見られていた。

■昔の名前

 「ホンダらしさ」を取り戻す――。八郷による改革は少しずつ進んでいる。例えば、16年10月に設けた「商品・感性価値企画室」。「匠(たくみ)」と呼ばれる熟練の技術者3人が監修し、ホンダ車に共通の個性をつくる試みだ。内外装のデザイン、インパネなどの操作性のインターフェース、ハンドルの重さやエンジン音・振動など走り――。世界各地の要望を車種ごとに採り入れたため拡散してしまった個性に横串を通す。車の開発を技術研究所が主導できるよう組織と配置も変えた。

 変革の芽はある。東京・赤坂にある「HondaイノベーションラボTokyo」。ソフト開発のエンジニアなど約120人が在籍する。半分はホンダの生え抜き、半分は総合電機メーカーなどからの中途採用だ。ホンダの技術者は白い制服を着るのが伝統だが、ここはジーパンの社員もいる。ロボティクスやエネルギーなど、車とは直接関係ない人工知能(AI)を使った技術を研究開発する。技術研究所執行役員の脇谷勉は「もう一度僕らの代でレボリューションを起こす」と意気込む。

 国内の消費者を振り向かせるために、9月からグローバルの旗艦車種である「シビック」を6年ぶりに発売した。来年は新型の「CR―V」も発売するほか、「アコード」の投入も検討する。シビックは月2000台の販売目標に対し受注は1万2000台。手応えはある。だが「昔の名前」でどこまでファンをひきつけていられるか。

 「昔はいつ来てもこの店はいっぱいだねとホンダの人に言われていたけれど、いまはこの通り」。狭山工場に近いそば店の女将は、空席が目立つ店内を見渡しながらため息をつく。40年営業してきたが、ホンダが狭山工場を閉めるので近い将来、店を閉めるつもりだ。

 そば店の出前に使えるカブの開発、米の厳格な環境規制をクリアしたCVCCエンジン、アイルトン・セナを擁したF1の優勝――。ホンダの栄光を語る人々が引くのは「若い頃の自慢話」だ。まさに今、創業者・本田宗一郎の突破力が待ち望まれている。

=敬称略

(藤野逸郎)

nikkei.com(2017-11-07)