「訓練3日、火星へ80日」 マスク氏の移住計画

 【グアダラハラ(メキシコ)=兼松雄一郎】米宇宙開発ベンチャー、スペースXのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)が「21世紀版のアポロ計画」とも言える火星開拓計画を発表した。ジョン・F・ケネディ大統領の公約通りアポロ11号が月に到達したのを頂点に長い低迷期に入った米国の宇宙開発。だが、現代のスーパースターである起業家マスク氏が起爆剤となって再び業界全体が熱を帯びつつある。

■プレゼンに聴衆殺到

 「地球上ではもうどこにでも行ける。かつての米西部がそうだったようにいまは宇宙こそがフロンティア。再び宇宙に出て行く。重力、一日の長さなどを勘案すると移住するなら火星が最適だ」。

 壇上の巨大な火星の画像を背に「科学の進歩」への揺るぎない信念を語るマスク氏。その姿はかつて「宇宙は人類最大の冒険だ。困難だからこそ我々は月を目指す」と語り熱狂を巻き起こしたケネディ大統領をほうふつとさせた。

 マスク氏が今回、地球と火星の間など、惑星をつなぐ輸送システムの発表の場として選んだのは「国際宇宙会議」。今年はメキシコ第2の大都市グアダラハラで開催中だ。業界全体に大きな波を起こそうと、各国の宇宙機関や関連企業など宇宙業界の重鎮が集まる場を選び、あたためていた案を満を持してぶち上げたものだ。

 狙い通りマスク氏のプレゼンを前に会場には長蛇の列ができた。入り口を制限する厳戒態勢の中、ドアが開いた瞬間に地鳴りのような音とともに聴衆が殺到。参加者には冷静な科学者が多いが、始まる前から異様な熱気と緊張感が漂った。質問のためのマイクの前には少しでもマスク氏に近づこうとする聴衆が押し寄せすし詰め状態になった。かつてのアポロ計画の宇宙飛行士が参加するイベント映像のような光景が広がる。ほとんどスターとファンの関係だ。

 「ためてきた私財をこの計画のためになげうつつもりだ」。マスク氏の言葉に満場の喝采が起こる。会場はすさまじい熱気だ。

 「人類という種族を地球外に進出させる。地球外に文明を打ち立てる。皆さんの協力が必要だ。火星を生きているうちに住める場所だと思わせたいんだ」。持ち前のSF好きのオタク気質をにじませながらとつとつと言葉をつないでいく。

■移送費1人2000万円

 聴衆のあまりの熱気に主催者も予定時間を30分以上延びても質問を打ち切れない。歓迎のキスをさせて欲しいという女性まで登場し笑いを誘った。結局、直後に予定されていた記者会見は中止となった。停滞していた宇宙開発の流れを小さなベンチャーから変えつつあるマスク氏は一部の宇宙愛好家の間ではもはや神格化されている。

 「今、火星に人を送ろうとすれば約1兆円がかかる。これを家が買えるくらいに手が届くものにする。究極的には一人1〜2千万円になりうる」。「搭乗前の訓練は2、3日でいい。到着までに80日以上かかるがレストランやキャビンも用意するので快適な旅行になる」。

 スペースXは2025までに火星への有人飛行実現を目指す。火星への大量輸送構想では、高出力の新型エンジンを積んだ全長120メートル以上の史上最大のロケットに100人以上が乗れる宇宙船を搭載。まずは地球の周回軌道上の中継地点に打ち上げる。巨大な宇宙船を運ぶための炭素繊維を使った超巨大燃料タンクも開発中だ。宇宙船は中継地点でタンカー船から燃料を補給してから火星に向かう。これによって機体サイズとコストを抑える仕組みだ。

 一方、ロケットは打ち上げ後、燃料を逆噴射させながらもとの発射台に戻る。そしてすぐに別の宇宙船を載せて、燃料を充填して再びまた打ち上げる。いまの飛行機のようなイメージだ。火星に着いた宇宙船は現地で燃料を調達して戻ってくる。

 ロケット打ち上げで周囲の予想を打ち破り成功率を上げてきたスペースXがこうした宇宙における輸送拡大の具体的な計画を出したことは宇宙産業全体にとって大きな意味を持つ。

 IT(情報技術)長者や米航空宇宙局(NASA)の出身者などが中心になって、宇宙旅行、ホテル、3Dプリンターを使った建設、資源開発などいま様々な宇宙ベンチャーが勃興している。これらの事業は低コストの輸送手段なしには成長は不可能だ。投資を集める上では具体的な輸送網の拡大計画があることは大きな後押しになる。

 起業で繰り返し実績を出し、投資家からの評価も高いマスク氏の公約は投資や研究開発、起業の呼び水になりうる。ケネディ大統領がアポロ計画への資金拠出の大幅増額を公約したのと同じ効果をじわじわと発揮する可能性がある。

■アポロ計画の継承者

 とはいえ、実現まではまだまだ遠い。今回の惑星間輸送のプロジェクトは週末に有志の社員が勝手にやっていた「ホビープロジェクト」が少しずつ形になってきたものだ。マスク氏もこれに使っている経営資源は「5%以下」と認めている。現在の衛星の打ち上げ、宇宙ステーションへの貨物の打ち上げなどで安定的な収益が引き続き入り、宇宙船の開発が一段落した後でようやく数億円規模を投資していく予定だ。

 今回のように先へ先へと困難な目標を次々に打ち出していくのは、社員の能力をぎりぎりまで引き出すマスク氏の経営手法の一部だ。「歴史が証明しているように技術は自動的には進化しない。優秀な技術者を刺激し続けなければならない」とマスク氏は語る。

 念頭に置いているのは1960年代の冷戦下の「アポロ計画」だ。米国はソ連に勝つため巨額の国家予算を使い公約通り月に到達した。だが、その後、ベトナム戦争の泥沼化による財政悪化もあり、研究予算の縮小とともに技術革新は低迷した。国民の宇宙熱も急速に冷めた。深刻化する環境問題など宇宙より身の回りの地上の環境の方に大衆と政治の関心が移ったのだ。

 巨額の資金が必要な宇宙開発は大衆の関心、政府の協力なしには前に進まない。そして現代には冷戦時の緊迫感も、単純に科学の進歩を信じる楽観的な大衆も存在しない。新興国を除けば世界の宇宙機関の予算は抑制傾向にある。だが、一方でそこに風穴を開ける存在として起業家が台頭している新たな要素もある。

 電気自動車(EV)と太陽電池で環境問題の解決を目指すマスク氏や世界の情報格差解消を掲げる米フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOらは社会変革を起こす現代のスーパースターだ。起業家は構想の力によってカネとヒトを同時に集め、自ら仕掛けて公的な資金を呼び込む巨大な存在になりつつある。その意味でマスク氏はアポロ計画の現代における正当な継承者なのだ。

nikkei.com(2016-09-28)