憲法改正と日本の行方、歴史的には旧法に固執すると破滅する


 2016年7月10日の参院選では「憲法改正問題」が争点のひとつでした。結果、改憲に前向きな勢力が3分の2を超え、これから改憲派と護憲派が侃々諤々(かんかんがくがく)の論戦を繰り広げることでしょう。

 そもそもなぜ今「憲法改正」が叫ばれているのか。それは、現行の「日本国憲法」はあまりにも問題が多すぎるためです。今回は、現行憲法の諸問題について歴史的背景を絡めながら考察していくことにします。

■改正は当たり前、近代憲法の生んだヨーロッパの場合

 現行憲法における最も大きな問題は、何と言っても現在の「日本国憲法」が70年も前に作られたもので、あまりにも古すぎるという点です。

 以前の本コラム(「現代『民主制』の機能不全は歴史的な流れ」)でも触れましたように、人間が作った制度や法というものは例外なく古くなります。古くならない制度・法などというものは人類史上、ひとつの例外もなく存在しません。しかも、古くなるのは人が思っているよりずっと早いのです。

 制度も法も、それが成立する時点での社会にピッタリと合うように作られます。たとえば、子供のために新しく服を新調するとき、その子の身体に合わせて縫製するのと同じです。キツキツだったり、ガバガバだったりしては服として用を成さないように、制度や法も、その時代の社会とピッタリとマッチしたものでなければうまく機能しません。

 しかしながら、子供の身体はどんどん大きくなるのに、服は大きくなりません。窮屈になってきたら、もう一度仕立て直すか、買い直さなければなりませんが、制度や法もこれと同じです。制度や法もひとたび作ってしまえば固定化してしまうのに、社会の方は常に変化していくため、すぐに適合しなくなってしまいます。そこで、否応なく社会の変化に合わせて定期的に修正したり改正していくのが当たり前であって、後生大事に守り通すという類のものではありません。

 近代憲法を生んだヨーロッパを見ていきましても、たとえば、フランス初の憲法は「1791年憲法」ですが、そこから数えて現行の「フランス第五共和国憲法」はすでに16個目の憲法です。その平均寿命はわずかに14年。これと比べても、「日本国憲法」の70年がいかに長いものかがわかります。


 現行の「フランス第五共和国憲法」の制定は1958年ですから、成立からすでに58年。これだけ見れば「日本国憲法とさして変わらないではないか」と思われるかも知れませんが、これとて制定以来「一言一句同じ」ではなく、この58年の間に、時代や社会に合わせて「24回もの改正」が行われています。このペースは、ほぼ2年に1回という高い頻度です。

 もうひとつ例を挙げれば、戦前の日本の同盟国で、同じ敗戦国の立場であったドイツの「ドイツ連邦共和国基本法」も憲法自体は67年とかなりの長寿命です。しかしこれとて、現在まで58回(ほぼ毎年ペース)もの頻繁な改正を繰り返しているのです。

 これに対して日本の場合、「一言一句の修正すらなく70年」なのですから、もはや「異常」といってよいものです。例に挙げたフランスやドイツに限らず、他の国も、日本以外の国では憲法改正など頻繁に行われるのが普通です。

 身体(社会)が成長して服(法)が合わなくなったら、仕立て直し(修正)するか新調(改正)するのは、至極当たり前のことです。今の日本は、赤子との時にあつらえた服を、成人した今も着せられているようなもので、異様な姿をさらけ出していることを理解しなければなりません。

■旧法を死守しようとして没落したポーランド

 それでも護憲派の人たちは、あらん限りの詭弁(きべん)を弄して現行憲法を守り通そうとします。

 そこで、18世紀前後のポーランドの例を見てみます。今でこそ“二流国家”に成り下がっている観のあるポーランドですが、16世紀のころまではヨーロッパでも強勢を誇る大国でした。それが17世紀以降、急速に衰えていき、18世紀末にいったん滅亡、地球上から消え去ってしまいました。

 ほんの少し前まで強勢を誇っていたポーランドともあろうものが、いったいどうしたことでしょうか。理由は多元的で複合的ですが、大きな原因のひとつに「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の制定があります。

 リベルム・ヴェトは当時のポーランド貴族たちが、自分の利権を守らんがために導入したもので、どんな圧倒多数をもってしても、たった一人の貴族議員が「反対!」と言えば廃案となるという、いわば「全会一致制」でした。これで貴族たちの利権を損ねるような新法が現れても安心。たった一人の貴族議員が「反対」すれば、そうした法案を潰すことが可能になったからです。

 こうしてポーランド貴族は「現状」と「旧法」を容易に守り通す事が可能となりました。

――よし、これで、我々貴族の利権は安泰だ!

 愚かなるかな、リベルム・ヴェトが成立したとき、ポーランド貴族はこういって胸をなでおろしたものでした。

 しかし、先ほども申し上げましたとおり、法というものは例外なく必ず古くなります。古くなった法は、どんどん時代に合わせて、社会に合わせて刷新していかなければなりません。解決しなければならない国家問題はどんどん山積していくのに、どんな法案にも必ず一人や二人反対者はいますから、リベルム・ヴェトの導入によって、事実上、一切の法改正が不可能になってしまいます。

――このままでは、貴族の利権は守られるかもしれんが、その前に、国家自体が亡んでしまう。それでは本末転倒だ!

 ここにきてポーランド貴族たちも、ようやく「全会一致制」の愚かさ、「旧法を死守すること」の愚かさに気づき、慌てて「リベルム・ヴェト廃止法案」を提出しましたが、その「リベルム・ヴェト廃止法案」もリベルム・ヴェトによって裁決されるため、当然、廃案に。ひとたび全会一致制を導入してしまうと、もう後戻りすらできません。

 そこで考え出された打開策、それが「反対議員を片っ端からブチ殺せ!」。「旧法」を守らんと執着した結果が、この有様です。そして間もなくポーランドは滅亡していくことになります。このときのポーランドに限らず、歴史をひも解けば一目瞭然、古い制度や法に執着することは、確実に国家の破滅を呼び込むのです。

■「ニッポンの夜明け」が理解できなかった幕末武士

 こうした観点からも、今や現憲法の改正を本気で考える時期に来ていることは明白です。ところが、いつの世にもこうした道理が分からない、「古いものに執着する」人はいます。どうしても新しい時代の到来を理解できず、現行の制度や法の欠陥を理解できず、旧きに執着する人が。

 洋の東西を問わず古今を問わず、こうした人たちが制度や法の刷新を妨げ、18世紀のポーランドのように、社会を混乱に陥れ、場合によっては国を亡ぼす元凶となっていきます。しかし本人たちはその自覚がまったくなく、むしろ自らは「正しいことをしている」と信じて疑いません。

 それは、幕末においてもはや時代は新時代に向かっているのに、どうしても理解できず、「断固として幕藩体制を守り通すべし!」と叫んで、国を憂う志士たちを次々と暗殺しつづけた新撰組とよく似ています。ご多分に漏れず、彼らもまたその自覚なく、幕藩体制を守ることこそが正しい選択だと信じて疑うことなく、命を賭けて戦い、日本の足を引っぱりつづけたのでした。


■テロでは「イスラーム再興」は実現しない

 現在、イスラーム系組織のテロが世界中で相次いでいますが、実はあれもこうした側面があります。彼らもまた、すでに「時代」が変わっていることをどうしても理解できず、認めず、今から1600年も前に創られた古い法(シャリーア)にしがみついて、これを一言一句たりとも違えることなく守り通すことに執着し、またそれによってしか、アッバース朝やオスマン朝の時のようなイスラーム世界の繁栄を再建することができないと信じる者たちです。

 その点は、「70年も前の古い法にしがみつくことで平和が維持できる」と信じて疑わない護憲派の姿を彷彿とさせます。護憲派は弁論で、イスラーム系組織はテロによって、自らの理想を実現しようとしている点は大きく違いますが、その根の部分は同じなのです。

 しかし、時代の流れに逆らう者はひとつの例外なく、歴史によって抹殺されます。先ほど例に挙げた新撰組の末路も悲惨でしたが、それも歴史の流れに逆らったからです。したがって、彼らが世界中でどれほどテロを繰り返そうとも、歴史の流れに逆らう彼らの野望「イスラーム再興」が実現することは決してないでしょう。

■「押し付け憲法」問題

 現行憲法にはもうひとつ、改正すべき致命的な問題があります。それが「押し付け憲法」問題です。

 太平洋戦争の終結後、GHQ(連合国軍総司令部)が土足で上がり込んできて、「憲法を改正しろ」と要求してきました。この時点で、明白な「ハーグ陸戦条約(1907年)」違反であり、「ポツダム宣言(1945年)」違反ですが、これに対して護憲派は、ありとあらゆる詭弁を弄して、これを否定しようとします。

――日本国憲法は、国際法違反ではない! 押し付け憲法でもない! 確かにマッカーサー案を基に憲法草案がつくられたものの、その後、その草案を選挙で選ばれた国民の代表が審議し、賛成してできたものだから!

 もはや開いた口が塞がりません。「国民の代表が審議し、賛成した」? こういう発言をする方は、本気で言っているのでしょうか? その「賛成」とやらは「反対など許さぬGHQの無言の圧力の下で実施された」ものだと、どうして思い寄らないのでしょうか? しかし、ここではその真偽については論ずる必要すらありません。

 現行憲法が客観的事実として「押し付け」であるか「自主」であるかの結論は一時置いておいても、その「疑惑」が濃厚であるというその一点で改正する理由として十分だからです。

 異民族が作った(疑い濃厚の)憲法を、しかも70年も前のカビの生えたような古い憲法を、後生大事に守り通そうとする国民など、世界中どころか、人類史上を探しても、現代日本人以外、他にまったく存在しません。

 それでも護憲派は、ほとんどヒステリックに叫びます。

――憲法改正反対! 平和憲法を守るべし! 「第9条」は断固として守らなければならない!

 しかしそんなことは、憲法改正の際、新しい憲法をどのようなものにするかの議論の中で主張するべき事であって、憲法改正そのものを否定する理由になりません。改憲すればただちに「第9条は廃され、徴兵制が実施され、日本は戦争へと突入していく」かのごとく感情的に主張していますが、必ずしもそうとは限りませんし、たとえそうなったところで、それも「日本人が決めた」ことならば「よし」としなければなりません。

 民族自決――独立国家にとって、最も重要なことは「自国のことはその国の人間で決めなければならない」ということであって、他国の人間に作ってもらった憲法で、他国の軍隊に守ってもらった「平和」など、断じて真の平和ではありません。筆者は日本人の手で作った憲法なら、それがどんな憲法でも受け入れます。それが民主主義というものです。

■日本は戦後70年間アメリカの「属国」

 今、筆者はあえて「属国」という言葉を使います。我々は学校教育で「日本は独立国家です」と教わってきたはずです。ほとんどの日本人は、これを無批判・無検証に盲信しています。したがって、筆者がこんなことをいっても「何言ってんだ、こいつ?」とくらいしか思わないかもしれませんが、日本は戦後 70年間、今日に至るまで「独立国家」などではありません。紛うことなき「アメリカの属国」です。20世紀前半までの属国や植民地とは違った形態の、一見したところ巧妙に「独立国家」を装った「新型の属国」です。

 よく「日本はアメリカ合衆国の51番目の州」などと揶揄されますが、これはジョークでは済まないリアリティーがあります。実際、現在の国際連合でも、日本にはいまだに「敵国条項」が適用され、その対応は「アメリカの属国」扱いです。日本が支払っている国連の維持費は、イギリスよりも、フランスよりも、ドイツよりも、中国よりも、ロシアよりも多い、世界第 2位(第 1位はアメリカ)であるにもかかわらず。


 それというのも、欧米社会の価値観では「独立」と「軍の保有」は表と裏の関係であり、表裏一体、決して切っても切り離せない関係だからです。軍を持たない国が独立することなどあり得ないし、独立は軍の保有によって保障されます。

 例えば相手が「武装解除する」と通達してきた場合、それは「我が国の属国とする」という意味です。第一次世界大戦後、ドイツにそれをやったら、属国扱いを受けたドイツ人の怒りが爆発し、その怒りがヒトラーという“怪物”を育み、第二次世界大戦を引き起こすことになりました。

 これに懲りたアメリカは、太平洋戦争後、日本にも「武装解除(=属国化)」を望みましたが、それをすればドイツの二の舞となって「日本版ヒトラー」が現れるかもしれません。これを懸念したアメリカが思いついたのが「平和憲法」です。

 「これは“武装解除”じゃないよ、“平和憲法”だよ、よかったね。これで戦争のない平和な国になれるんだよ。大丈夫、日本のことはアメリカが守ってあげるから!」――。

 「属国化」を「平和憲法」と言葉を言い換えただけで、中身は完全な「武装解除」であり「属国化」なのです。

■歴史的に見れば、憲法改正に反対する理由などない

 日本は、こうした耳当たりのよい言葉に言い換えて、悪事を隠蔽するイメージ戦略について十分理解しておかないと、そうした策略に簡単にはまってしまう恐れがあります。

 たとえば、第一次世界大戦前まで「軍事同盟」と呼んでいたものが、戦後、国民の中に厭戦ムードが高まると、これを「相互援助条約」と言い換えて、自国民の目をそらしています。また戦後、「植民地」に対するイメージ悪化が起こり、植民地経営がやりにくくなると、「委任統治領」と名を改めることで不満の芽を摘みます。

 さらに太平洋戦争後、アメリカは日本の指導部を皆殺しにすることを望みましたが、それでは日本国民の反発を受ける懸念があったため、これを「東京裁判」と呼ぶことにしました。これは「裁判なら公正が期されるであろう」というイメージ戦略で、日本人はこれに見事にだまされ、「東条英機は裁判で死刑になったそうだ。あいつめ、悪いヤツだったんだな!」などと言っているのが日本人だったりします。

 「平和憲法」もまたその戦術のひとつにすぎません。

 こうした「言葉を言い換えただけのイメージ戦略」に、日本人は毎度毎度コロコロとだまされます。自民族のことは自民族で決める(民族自決)。それこそが「独立国家」の基本中の基本です。今回の「憲法改正」に対する議論は、戦後70年目にして日本が「真の独立」を果たせるかどうかを問う、歴史的意味合いの深いものなのです。

 こうして歴史をひも解いて考えれば、憲法改正に反対する理由など何ひとつありません。護憲派は憲法改正案の中に「自分の主張を盛り込んでいけばよい」だけのことで、旧法に執着し、新法に反対することが国を亡ぼす“売国行為”であることは、悠久の歴史が証明しています。

 ほとんどの日本人は「第9条」ばかりに心を奪われています。しかし実のところ重要なのはそこではありません。

 憲法改正によって「第9条」は削除されてしまうかもしれませんし、残されるかもしれません。しかし、そのどちらであろうが「日本人が決めたこと」という点が一番重要なのです。

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予備校世界史トップ講師、世界史ドットコム主宰 歴史エヴァンジェリスト。「スキンヘッド、サングラス、口髭」の風貌に、「黒スーツ、黒Yシャツ、金ネクタイ」という出で立ちで、「神野オリジナル扇子」を振るいながら講義をする。誰にでもわかるように立体的に、世界の歴史を視覚化させる真摯な講義は、毎年受講生から絶賛と感動を巻き起こし、とてつもない支持率。近年はテレビや講演会でも活躍。著書の『世界史劇場』(ベレ出版)はシリーズで大人気。『最強の成功哲学書 世界史』(ダイヤモンド社)、最新刊『戦争と革命の世界史』(大和書房)も好評発売中。

nikkeibp.co.jp(2016-07-13)