AIの「人間超え」、その時トップ囲碁棋士は

緊急寄稿:高尾紳路九段が見たシンギュラリティ(技術的特異点)の風景

 今年3月、世界トッププレイヤーの1人、韓国の李世ドル(イ・セドル)九段が五番勝負でグーグル傘下企業のディープマインドが開発した人工知能(AI)「アルファ碁」に敗れたというニュースが世界中を駆け巡った。チェス、将棋など人類の知性の象徴とされてきたゲームで次々にAIによる「人間超え」が起きてきたが、「早くて10年後」とされてきた囲碁がここまで早く陥落することを予想する人はいなかった。
 AIが人間を超える、シンギュラリティ(技術的特異点)。遅かれ早かれ、我々全員が直面する現実だ。正に今、囲碁棋士はその現実に向き合っている。そこには、どのような光景が広がっているのか。名人、本因坊など14回のタイトル獲得経験を持つ日本囲碁界のトップ棋士の1人、高尾紳路九段が緊急寄稿した。

 3月8〜15日にかけて行われた五番勝負で、韓国の李世ドル九段が人工知能(AI)「アルファ碁」に敗れた。通算成績は1勝4敗だった。

 アルファ碁の存在を知ったのは1月末。中国のプロ棋士で欧州チャンピオンの樊麾(ファン・フイ)氏を、5戦全勝で破ったというニュースを聞いた時だ。それまで囲碁ソフトはアマチュアの高段者レベルだったのが、突然プロに勝つまでに進化したというのだから驚いた。しかも、あの李九段と五番勝負を戦うというではないか。

 棋譜を冷静に分析してみると、その時点でのアルファ碁の棋力は比較的弱いプロといったところかと感じた。五番勝負まで半年で、アルファ碁が更に強くなるだろうとは思ったものの、それでも李九段の有利は揺るがないと予想していた。

予想を覆したAIの勝利

 3月9日、第1局。アルファ碁(白番)には正直、それほどの強さを感じなかった。途中経過では白の形勢が良さそうだとは思っていた。だが、それから白が損を重ねたこともあり「逆転しただろう」と思って、そこからあまり注意して見ていなかった。


 ところが、終わってみると李九段が負けたという。もちろんショックは大きかった。だが当時、アルファ碁についてほとんど情報がない状況で、李九段もアルファ碁の強さを試すような打ち方をしていた印象があった。何度も世界戦を制しているとはいえ、世界中の注目を集める大一番でやや固くなっている様子も伺えた。いつもの実力を発揮すれば、やはり李九段の方が強いのではないか。それが局後の率直な感想だった。

見抜けなかった「勝ちました」宣言

 3月10日、第2局。私の楽観的な見方は、完全に覆された。

 私は第2局、第3局、第4局と「囲碁将棋チャンネル」のネット中継番組において、リアルタイムで対局を解説した。中継で見ている限り、李九段もいつもの世界戦と同様の雰囲気で、隙がない。第1局のように不覚をとることはないだろうと感じた。

 序盤の37手目、アルファ碁(黒)に「疑問手」が飛び出す。囲碁の専門用語で「カタツキ」と呼ばれる手だが、プロ棋士であればここに打つ人間はいない。私は当然、李九段が優勢になったと判断し、そう解説した。韓国のプロ棋士たちも、同様の評価だったと聞いている。


 番組をご覧頂いた方には申し訳ないが、私の解説は間違えていたことになる。局面が進むにつれて徐々にアルファ碁の有利が鮮明になり、結局そのまま勝利したからだ。とても不思議な感覚だった。

 終局後、何度も棋譜を並べ直して考え、そして見えてきた結論がある。この手はアルファ碁(黒)による「勝ちました」、すなわちここで試合は事実上終了という宣言だったのだ。

 囲碁においては、終局までに200手を超えることが普通だ。序盤の37手で勝敗が事実上決まるなど、あるレベル以上の人間同士ではとても考えられないことだ。仮に微妙な差がついていたとしても、19×19の碁盤はあまりにも広く、わずかなミスで簡単に優劣がひっくり返る。

 ところが、アルファ碁は序盤で黒が優勢と明確に計算し、このまま勝利できると見て手堅く打ち始め、実際にミス無く優勢のまま押し切った。李九段のような世界トップレベルの棋士を相手に、そんなことをできる人は誰もいない。

 そのような存在に、人間は絶対に勝つことはできない。人間にとって囲碁は、ミスなしで乗り切るにはあまりに長過ぎる競技だからだ。今回のように持ち時間2時間という短時間制の対局では、なおさらだ。

 このまま行けば、李九段は一勝もできない。絶望的な確信だけが、深まっていった。

敗着は15手目

 3月12日、第3局。アルファ碁が黒(李九段)の勢力圏に踏み込んだところで、昭和の時代に見られた、やや古い形が盤面に登場した。そこでアルファ碁の好手が飛び出す。


 一見、険しい戦いになることを予感させる手でどうなることかと思ったが、数手後アルファ碁はシンプルに安全を確保する打ち方を選択した。そこで盤面を見ると、既に白がよくなっている。現在最も勢いがあり世界最強との呼び声も高い中国の柯潔(かけつ)九段はこの碁を見て、「15手目が敗着」と述べたという。


 これで3連敗。覚悟していたこととはいえ、李九段の負けが決定した。アルファ碁が人間を超えたという認識が、世界中に広がっていった。

 3月12日、第4局。通常のタイトル戦の五番勝負なら、存在しないはずの対局だ。負けが決まっているにもかかわらず、世界中から注目を浴びながら対局に臨む李九段の心境はいかばかりか。

 序盤から李九段が劣勢となる。この碁も負けかと思いながら、解説を続けるほかなかった。ところが、中盤で李九段が放った勝負手を契機に、アルファ碁が思いもよらぬ脆さを見せることになる。


 78手目の「ワリコミ」と呼ばれる手だ。迫力満点の手だが、実は人間同士の対局であればそれほど怖い手とは言えない。既に黒(アルファ碁)の優位は揺るぎない状況になってしまっているため、リスクを犯さずに妥協しても白はお手上げだ。

 ところが、アルファ碁は対応を誤った。そして、その後、初心者のような手を次々に出し始めて一気に形勢を損ねていった。文字通り人外の強さを誇ってきたアルファ碁に、一体何が起きたのだろうか。

突然アルファ碁が級位者レベルに

 もちろん、正確なところはアルファ碁の中を覗いてみなければ分からない。だが、私はこの局面特有の状況が、コンピューターのキャパシティーを超えたのではないかと推測している。

 李九段のワリコミに正確に対応するには、左右にある弱点を考慮しながら正解手順を読み切ることが必要だ。トッププロにとっては十分に可能な作業だし、もし危なそうなら妥協すればよい。だが、アルファ碁にはどちらの着手も選択することができなかった。

 そして、現時点で不利な状況に陥っているとアルファ碁が判断した時から、別人のようになった。まるで初心者のような手を打ち出し、損を重ねていったのだ。そして、李九段は唯一の勝利を手に入れることになった。


 どんな状況でも諦めない、不撓不屈の精神力で活路を見出した、李九段の凄みをまざまざと見せつけた一局だった。自分のことのように嬉しさがこみ上げた。

 3月15日の第5局の結果は、ご存じの通りだ。アルファ碁が序盤で見損じをしてやや形勢を損じたが、第4局のような弱点は出ず僅差の勝負の中でミスなく打ち切った。

 今回の五番勝負は、非常に公平なルールで打たれたと思う。何を持って「人間を超えた」とするかは人それぞれだろうが、私は素直に人工知能が人間を超えたと言ってよいと思う。

 一方、よく問われるのは、この事実を棋士としてどう受け止めるべきかということだ。

 人工知能がいずれ人間を上回ることは、最初から分かっていることであり、敗れたからと言って決して恥ずかしいことではない。人工知能が必勝法を発見できたわけでもない。囲碁が奥深く魅力ある存在であることは何も変わっていないのだ。

 むしろ、アルファ碁がくれた人間の固定観念になかった発想は、大きな刺激となった。他のプロ棋士にとっても同様だろう。囲碁のレベルそのものが引き上げられることで、より高次元の勝負を見せられるようになれば、棋士としてこれ以上の喜びはない。

人工知能技術をぜひ社会の課題解決に

 素晴らしい五番勝負を観た後で私は今、人工知能とトップ棋士と対局の機会を今後も設けて欲しいと強く希望している。

 中国には直近の成績では李九段を凌ぐ俊英、柯九段がいる。日本の井山裕太九段は現在、十段のタイトルと同時に前人未到の7冠に挑戦中だ(現在は棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖)。井山九段は第4局で現れたような複雑な碁を得意としており、好勝負が期待できる。我々は囲碁の真理に近づくのと同時に、人工知能の隠れた弱点をさらに引き出し、改善してもらうことができる。お互いに切磋琢磨できるのではないだろうか。

 グーグルはアルファ碁の開発で培ったディープラーニングなどの人工知能技術を、医療や気候モデリングにも役立てていく方針だと聞く。囲碁が社会の深刻な課題の解決に貢献できるのなら、これほど誇らしいことはない。


《追記》
技術的特異点(シンギュラティー)とは
人類が生み出したテクノロジーが、人類の限界、予測を越えて急激に進展し始めるポイントのこと。

nikkeibp.co.jp(2016-03-19)