ホンダジェット、「夢」を「現実」にした挑戦者

藤野道格氏が手にした米FAAの「型式証明」

 ホンダの航空機事業子会社、ホンダ エアクラフト カンパニーは12月10日(日本時間)、米連邦航空局(FAA)から「型式証明」を取得したと発表した。型式証明は、強度や安全性などにおいて機体が適切な設計であることへの「お墨付き」だ。これまで3000時間を超す飛行試験を重ねてきたが、型式証明を取得したことで、顧客に「ホンダジェット」を納入することができるようになる。ホンダによれば、初号機の納入は2015年中の見込みだ。
 「日経ビジネス」では2014年秋に、飛行試験の真っ最中だったホンダ エアクラフトの藤野道格社長を取材した。印象的だったのは、メディアなどで「本田宗一郎氏の『夢』」と形容されることが多いホンダの航空機事業について、「僕にとっては目の前の現実」と語る藤野氏の姿だった。研究開発に着手してから30年越しで型式証明、そして年内の納入というステップを着実に進めることができたのは、藤野氏の胆力に依る部分が大きいだろう。当時の取材記事を一部修正・加筆して、再掲する。


 一番近くで顔を見たのは、会社のトイレですれ違った時だった。「飛行機の話は外ではしてはいけない」と上司に言われていたから、声は出さずに、お辞儀だけした。

 これが、ホンダ エアクラフト カンパニー社長の藤野道格が覚えている、ホンダの創業者・本田宗一郎との接点だ。具体的な年号こそあやふやだが、当時の藤野は若い技術者の1人。年の54歳離れた創業者と「飛行機談義」に花を咲かせるなんてことは、あるはずもなかった。

 そのためかもしれない。外野が「創業者の夢がかなう」とはやし立てるのとは裏腹に、藤野にとって飛行機作りはずっと「すごく現実的なものだった」。例えるならば、米ボーイングに「777X」の開発を「夢」と語る社員がいないのと同じだ。彼らが目の前の現実として新型機を作るように、藤野は「ホンダが誇れる飛行機を作ること」に、約30年間、対峙し続けてきた。

 夢ではなく、現実。

 藤野のこうした意識こそが、多くの人が懐疑的だったホンダの航空機開発を1つの事業に昇華させたといっても過言ではない。ホンダが基礎技術研究センターを設立し、藤野が数人のメンバーとともに航空機の研究を命じられて渡米したのは1986年。藤野はその後、97年にホンダジェットのプロジェクトリーダーになり、2006年からはホンダ エアクラフト カンパニー(ノースカロライナ州)の社長として、ホンダの航空機事業を率いている。

 30年の間にはもちろん、幾多の逆境があった。乗り越えられたのは、藤野が幼少期から抱いていた「人を驚かすモノを作りたい」という思いの力が大きい。けれど、それだけではない。相手を「現実解」で説得し、航空機の開発を押し通す胆力を藤野は持ち合わせていた。

 1つの例が、2008年のリーマンショック直後のエピソードだ。航空機事業からの撤退に傾くホンダの経営陣を説得する際、藤野は「創業者の夢」という金言に一切頼らず、「現実」を直視した。稼ぎ頭だった北米での販売不振で苦しむホンダの状況を把握したうえで、航空機のプロジェクトを継続させるための事業プランをひねり出し、開発の継続をのませた。もちろん部下には「そんなそぶりを微塵も見せなかった」(プログラムマネジャーの近藤近藤順一)。

 その姿はホンダという大企業の一部門というよりは、投資家に期待を抱かせて資金を調達するスタートアップの姿に近い。

 説得力で2度の危機を乗り越えた

 現実に向き合い、説得によってプロジェクトを通したのは、リーマンショック後だけではない。有名なのが、ホンダジェットの前に製作した機体「MH02」の初飛行から数年が経った1996〜97年と、ホンダジェットが初めて飛んだ2003年からの数年間に起きた2つの事件だ。

 「研究は進んだけれども、航空機を開発するのは簡単ではない」。1996年、当時のホンダ経営陣はこう判断して、航空機の研究プロジェクトを縮小しようとしていた。米国にあった研究拠点は同年9月に閉鎖。藤野も日本に戻された。「航空機プロジェクトがなくなるなら、俺は四輪(部門)に行きたいなあ」。一緒に仕事をしていたメンバーから消極的な声が漏れるたびに、藤野はモヤっとした気持ちになり、1年近くを過ごした。

 翌97年の秋、メディア向けのイベントに藤野は借り出される。展示物の説明のために立っていると偶然、当時社長だった川本信彦が通りがかった。

 川本は飛行機が好きで、以前に米国の研究拠点を訪れたことがあった。だから藤野は思い切って、「飛行機を作りたい」と思いのたけを話した。30分ほど立ち話をした後、川本が言ったのは「そんなに続けたいなら経営会議に持って来い」。

 千載一遇のチャンスを得た藤野はその日から、必死に資料をまとめる。件の経営会議には「持って来い」といった張本人である川本の姿はなかったが、その翌年に社長になる吉野浩行らの前で、藤野は今のホンダジェットのアイデアを説明。質問の集中砲火を受けた後、航空機開発を続けることが決まった。思いを直接ぶつけることで実現した、一度目の逆転ホームランだった。


 憂鬱な初飛行からの再起

 ホンダジェットのコンセプト機を初めて飛ばした2003年12月も、藤野は憂鬱だった。「飛んでホンダの技術力を示したら、開発はひと区切り」と上司から秘密裏に言われていたからだ。「間違っても事業化を連想させてはいけない」という経営陣の方針から、初飛行の対外発表も地味なものに。「何とかしたい」と思ったが、この時はなかなか妙案が出ず、会社を辞めるつもりで長期休暇を取った。

 しかし、旅先で出会った米国人が「ホンダジェットをぜひ買いたい」と言ってくれて、藤野にスイッチが入る。絶対に事業としてホンダジェットをお客さんに届けたい。はてさて、どんな策ならば、経営陣を説得できるか。

 「オシュコシュにだけは出させてください」。藤野が切り出したのはこのひと言だった。オシュコシュというのは米ウィスコンシン州の地名で、この地で毎年開催されていた「EAAエアベンチャー」という実験機のショーを指す。藤野は「事業化とは関係なく、ホンダの技術をアピールできる場です」と強調することで、経営陣を説得。2005年にホンダジェットを公に始めて披露するチャンスを得た。

 その後はショーで実機を見た人々の反応が経営陣を後押ししていった。翌2006年3月に当時社長の福井威夫が「これでいくか」と事業化にゴーを出すのが、ホンダジェットの開発のハイライトだ。

 過去にも何度か報じられているので、この2つの話自体はご存知の人もいるだろう。いずれも、航空機に対する執念が藤野を突き動かしているのは間違いないが、繰り出す手はいちいち「うまいな」と思わせる。世間では経営陣や投資家を説得しきれず、新規事業を断念する例が溢れる中で、藤野はどこでこの説得力を身につけたのか。

 戦略家をはぐくんだ卓球


 どちらかというと、色々な戦略を考えるのは好きなんです」。藤野はそう話してくれた。小学生の頃から設計技師を目指していた一方で、青森県弘前市で育った藤野は卓球少年という横顔も持っていた。実は、中学1年生から高校3年生まで続けたこの競技が藤野の戦略的思考を育てた。

 相手のくせを見極めて球の打ち方を変えるのは序の口。いかに相手心理状態を練るか、をスクールで叩き込まれた。穏やかな口ぶりや表情からはなかなか想像できないが、藤野は良い意味で徹底した戦略家だ。

 例えば、藤野は新しいアイデアを考えつくと、「クルマの中からでもすぐに電話をかけて、人の意見を聞く」(藤野)。しかも、スマートな人、ひねくれた人、専門家、専門外の人、とばらばらな属性の何人もに考えを尋ねる。かといって、それを鵜呑みにすることは全くない。色々な人の反応を探ったうえで、自らの意思を通すための戦略を導くのだ。

 代表例がホンダジェットのトレードマークでもある主翼の上についたエンジンだ。従来にない設計なので、一般の人は奇妙な形だと批判するだろうと、藤野は察した。一方で彼らは権威のある団体がお墨付きを出せば、「すごい」という反応に変わることも想像できた。だから事前に論文を発表。なかば自然体で戦略を実践していた。

 0→1から1→10へ

 「ゼロから新しい飛行機を開発するには藤野さんのような人が必要」。そう評するホンダや航空機の関係者は多い。確かに、開発期間が長く、数百万個の部品の製造プロセスまで含めて品質証明を1つ1つ積み上げていく航空機は、よほどの意思と胆力のある人間でなければ手に負えない。藤野は決して「これをしろ」と命令をするタイプではないが、進む方向を示し、自ら全てを把握する。日本企業のプロジェクトの多くが船頭多くして停滞したり、中途半端な仕上がりになったりするのとは一線を画す。多少のスケジュールの遅れはあったものの、来年半ばには顧客への引渡しを始められるというのは藤野の力あってだ。

 もっとも、今の局面ではものすごく上手く機能している藤野のやり方は、将来の課題になる可能性もはらむ。藤野はホンダジェットを離陸させたこの先、目の前の現実であるホンダジェットという事業を次代に引き継いでいく準備を始めなければならないからだ。開発期間が長かったのと同様に、航空機産業は投資の回収期間も十年単位になる。0を1にする段階を過ぎて、1を10にするためには、人が代わっても飛行機作りを滞りなく続けていける事業体を作らなければいけない。

 藤野は「若い人たちが来たいという会社にしたい。報酬だけでなく、エキサイティングなことができる会社にしていく」と話す。革新者(イノベーター)の本当の大仕事はこれから始まる。
 (敬称略、肩書きなどは取材時のもの)
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nikkeibp.co.jp(2015-12-11)