【トイレ掃除と日本企業の100年】

昭和28年、本田宗一郎が「徳義心」を説いたのはなぜか?

「働らく者の徳義心」

 創業5年目の1953年(昭和28年)、社内報『ホンダ社報』の創刊号の中で、本田宗一郎は掃除や整理整頓が会社にもたらす効用を次のように説いています。

 「一般に、製品が改良されないのは、技術の未熟に原因があるように信じられておりますが、私は、この頃技術よりもその工場に働く人の徳義心が欠けていることに、より多く原因があることを知りました。

 例えば、或る会社の自動車は、今以て、ガタガタのジョイントをそのままにして直そうとしませんが、ガタガタして居ることには前々から気付いており、又、技術的にも十分改良することが出来る力を持ちながら、やはり改良しないのです。之は、改良するだけの熱意─自分の会社の製品を買って下さるお客様に対して、出来る限りのサービスをしようという徳義心が欠けているからです。近代工業では、大衆の気持ちを察し、大衆が喜び、大衆が愛する製品を作る会社だけが、大衆に愛され繁栄するでしょう。そして、このことから、自分の仕事に対する誇りも生まれるし、自尊心も出来るというものです。

 若し、眞にお客様に対するサービスの精神、即ち、従業員としての徳義心を持つているならば、どのように苦心をしてでも工夫をし、改善してお客様の満足を得るはずです。お客様の満足を得ないのは、満足して頂こうという心がないからです。仕事の根本は、やはりその人の徳義心にあります。私は、以前から、「工夫発明は、苦しまぎれの智慧で或る。」と、申しておりますが、高い徳義心は、必ず優れた創意工夫を生むものであります。

 従業員諸君に、私が「工場を綺麗にするように」と、云うのは、外面を繕うためではありません。工場を汚くし、不整理、不整頓のままにしておいて顧みないような心からは、決して、優れた製品は生まれないからです。工場は、全従業員の生活するところです。ここを整えようという心の無い人に、優れた製品が作れるはずはありません。心はそのまま製品に通ずるからであります。

   埼玉工場を建設する時、私が先ず、水洗便所を作り、又、工場の機械や建物に色彩を施した事(カラー・ダイナミツクス)も、整えられた環境が、優れた製品を作る高い徳義心を養うことを知つているからです。

 創意工夫は、技術だけではありません。その職場職場で、仕事に対する高い徳義心のあるところには、必ず優れた創意工夫が生まれ、よい改良があり、進歩があります。」

 このように本田宗一郎は、「徳義心」という聞きなれない言葉を使って、掃除や整理整頓の大切さを伝えています。

 その後のホンダ社内報を見ていくと整理整頓に関する記事が目立ちますが、その中には、従業員の言葉や近況などを伝える記事も少なくありません。例えば1961年7月号では、ある一般社員の言葉として、「少し前まで私達の職場はきたなかったが、3S(整理、整頓、清掃)運動を強力に進めてきた今では、大変きれいです。毎日朝礼をやって、気のついたことをそのつど皆で話し合って決めて、各自の自覚を高めていこうと、努力しています」という記事がありました。創業時のホンダの社内が必ずしも綺麗でなかったこと、また3Sという言葉がすでに社内で定着しつつあることを物語る記事です。

5Sの進化

 前回紹介した世界初の経営学書『科学的管理法』でも、実は掃除の重要性が指摘されています。著者テイラーは企業の業務を可能な限り分業化して、分業化した作業を可能な限り標準化し効率化することを提言していますが、そのために必要なこととして、機械や工具を丹念に掃除することを求めています。すべての機械や工具が同じ状態でなければ作業を標準化しても無意味となってしまい、また最高の状態でなければ効率化など望めないからです。

 テイラーは、機械や工具を管理したりメンテナンスしたりする業務についても分業化をして、専門の係の人たちによって徹底して掃除することを求めました。

 しかし日本企業では、専門の係に掃除をさせるのではなくて、従業員全員が自ら機械や工具を掃除し、維持管理をするようになっていきます。そして掃除や整理整頓によって、製品の品質を向上させ、生産性を向上させ、無駄を減らし、安全性を向上させてきたのです。掃除や整理整頓という手段で、さまざまな課題を解消してきたのが日本企業であると言い換えることもできます。掃除を起点にして異なる目標を達成してきたということです。

 これがしだいに「3S」「5S」などの呼び名で総称されるようになり、製造業を中心とする作業現場には欠かせない活動として広がっていきます。3Sとは、整理・整頓・清掃です。これに清潔・躾を加えたものが5Sです。ちなみにトヨタ自動車は「4S」で、整理、整頓、清潔、清掃の順番の4つです。

 整理とは、一般的に「要るものと要らないものを区別すること」とされます。

 整頓とは、「残った要るものを使いやすいように配置すること」です。整頓の基本は3T(定位、定品、定量)とされます。3Tの徹底によって、必要な工具や部品、書類の置き場所が定まり、明示され、過不足のない状態になるわけです。

 掃除とは、整理整頓が実施された結果として残った「要るものを最高の状態にすること」です。

 清潔は、「以上の3つを常に維持し続けること」です。

 躾は「その状態を維持し続けることができる人間を育てること」です。

 さらに5つでは足りないとして、独自のSを付け加えていくこともあります。例えば日本電産では「作法」を足して「6S」と称しています。

「やる理由」と「やらない理由」

 このようにして日本企業の5Sは進化し、品質の安定やコストの削減などに大きな役割を果たしてきたわけですが、とりわけ「トイレ掃除」には何か特別な意味を見いだしてきた経営者が少なくないようです。

 日本電産の永守重信会長兼社長は、新入社員と買収した会社の社員に対して最初の1年間トイレ掃除をすることを強く求めていました。著書『情熱・熱意・執念の経営』(PHP研究所)の中では、次のように述べています。

 「便器に付いた汚れを素手で洗い落とし、ピカピカに磨き上げる作業を1年間続けるとトイレを汚す者がいなくなります。これが身につくと、放っておいても工場や事務所の整理整頓が行き届くようになってきます。これが『品質管理の基本』であり、徐々に見えるところだけでなく、見えないところにも心配りができるようになれば本物です。」

 現在の日本企業では、外注業者に任せてしまうなど、トイレ掃除は軽視されつつ傾向にあるようです。なぜでしょうか。

 その理由は簡単です。自分たちで掃除をする理由よりも、しない理由を列挙する方が容易だからです。「掃除をする時間を本来の仕事に充てた方が有効である」「専門の業者に任せた方が綺麗になる」「掃除をすると手や服装が汚れて衛生的でない」……。中には自ら掃除するのが面倒だということを棚に上げて、「掃除を仕事にしている人々の仕事を奪ってしまう」という理屈を言う人までいます。

 仕事というのは、「やる理由」よりも「やらない理由」「できない理由」を列挙する方が容易です。トイレ掃除は、その最たるものと言えるでしょう。

 しかし、再び自分たちでトイレ掃除をすることにした会社もあります。サントリーの利根川工場では、外注業者に任せていたトイレ掃除に再び社員たちが取り組み始めています。工場内の合言葉は「立見席はなし!率先垂範!」です。

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nikkeibp.co.jp(2015-08-20)