事業化の壁、原点回帰で突破 ホンダジェットの革新(3)

 ホンダが基礎研究からスタートしてつくり上げた小型ビジネス機「ホンダジェット」。だが技術開発のめどが立っても、事業化を判断するまでには高い壁があった。開発責任者の藤野道格氏は何度も諦めかけたというが、自らの原点回帰が事業化の道を切り開いた。

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「ホンダジェット」開発の先に立ちはだかった事業化の高い壁。突破口となったのは…

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■旅先の出会い、初心を取り戻す

 ホンダが1986年に航空機の基礎研究を始めてから30年近く。もちろんこれまでの道のりは順風満帆ではなかった。日本経済はバブル崩壊、円高、金融危機などの影響で浮き沈みがあり、ホンダの業績も影響を受けた。資金がかかる航空機の研究開発は打ち切りが検討されたこともある。

 最大の壁だったのが航空機の事業化の判断だ。「飛行機を開発して飛ばしてみる」と「飛行機を量産して販売する」との隔たりはあまりにも大きい。事業化を決めれば、機体工場や販売・サービス拠点の整備などで巨額の先行投資が必要になる。自動車メーカーからの新規参入という難しさもあれば、販売機が事故を起こした場合の影響などのリスクもある。

 それだけにホンダジェットの開発責任者、藤野道格(現・米ホンダエアクラフトカンパニー社長)は2003年12月の記念すべき初飛行の日も複雑な心境だった。

 1999年にホンダジェット(コンセプト実証機)の製作がスタート。その後、藤野の技術論文が米航空宇宙学会で評価されたものの、社内では航空機の事業化は難しいとの空気が支配的だったという。「ホンダジェットを開発して技術を確立する」。藤野は初飛行を当面の目標に走り続けたが、初飛行の成功によって「これでプロジェクトは終わりになるかも」との思いを抱くようになっていた。

 そんな藤野の気持ちを再び奮い立たせる出来事があった。初飛行の後に取得した3週間の休暇中のことだ。動画の中のインタビューで詳細を語っているが、旅先で偶然出会った米国人が小型ジェット機の利用者で、なんとホンダジェットのことを知っていた。会話が弾むなか「ホンダジェットが発売されたら買いたい」とその人は言った。このとき藤野の中に顧客の具体的なイメージが初めて浮かび上がったという。

 「もう少し頑張ってみよう」。藤野は学生の頃の気持ちを思い出した。「科学者ではなくエンジニアになったのは、自分が作った製品を多くの人に使ってもらいたいから」。初心を取り戻した藤野は、航空機の研究開発にとどまるのではなく「売る飛行機をつくる」という目標を新たにした。

■突破口を切り開いた航空ショー

 一方、ホンダ社内は相変わらず航空機の事業化には慎重なままだった。藤野はホンダジェットの飛行試験を続けるうちに、機体の競争力に確かなものを感じるようになる。事業化の突破口を開くための勝負に出ようと決めた。米国の航空ショーでホンダジェットを一般に公開し、革新的な飛行機であることを世界に広く知ってもらう作戦だ。

 藤野は実験機の祭典という色彩が強い米ウィスコンシン州オシュコシュの航空ショー「EAAエアベンチャー」をその舞台に選んだ。経営側はホンダジェットをショーに出せば、ホンダが航空機を事業化すると受け取られかねないとやはり慎重だった。藤野は「オシュコシュは技術展示の場。ビジネスとは切り離して、航空機技術をPRする場になる。オシュコシュだけ出させてください」と社内を説得、承認を取り付けたという。

 2005年7月、初飛行から1年半後に初めてブルーの機体のホンダジェット(コンセプト実証機)が一般に披露された。青空の下、会場の盛り上がりは予想をはるかに上回るものだったと藤野は振り返る。「この一般公開をきっかけに社内でも徐々に事業化につながる雰囲気が生まれた」

 2006年3月、当時の社長の福井威夫は大きな決断をする。ホンダジェットの事業化だ。藤野はこれまで幾度となく福井に事業プランを説明したが、なかなか首を縦には振ってくれなかった。「これが最後かな」という説明の時だったという。「福井さんが3〜5分沈黙し、『これで行くか』と言ってくれた」。事業化の扉が開いたこの瞬間を、藤野は今も鮮烈に覚えている。

 ホンダジェットの初公開からちょうど1年。2006年7月、米オシュコシュの同じ航空ショーの会場に、藤野は再びブルーの機体とともに立った。ここで初めて、ホンダジェットの事業化を公式にアナウンスした。故本田宗一郎の夢だった航空機事業の参入。ホンダはまさにゼロからの自主開発で創業者の夢の実現にこぎ着けた。=敬称略
(映像報道部 松永高幸)

《追記》
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nikkei.com(2014-10-20)