「ホンダに納入できれば世界一が見える!」
利島イズムで新鋭ロボを続々開発

 安川電機第8代社長、利島康司(72)=現特別顧問=が、ロボット事業部長に就いたのは平成8年6月だった。東京支社の営業マン、岡本幸男(67)=現・安川通商集団有限公司(香港)董事=が自室に飛び込んできたのは、それから間もない頃だったように記憶している。

 「利島さん、ホンダさん(本田技研工業)が、国内外の工場の生産ラインを作り替えるようです!」

 20億円以上の赤字を出し、社内でお荷物扱いされていたロボット事業部は、6年3月に利島が副事業部長に就任以来、ジワジワと業績を伸ばしてはいた。

 それでも産業用ロボット業界で国内4位。利島が掲げた「世界一」にははるか及ばない。「なんとか起死回生の一発を放ちたい」−。そう思っていた矢先のビッグチャンスに利島はいきり立った。

 「ホンダに納入できれば世界一の道も開けてくるじゃないか。やるしかない。絶対に取るぞ!」

 自動車メーカーへの納入は利島の夢だった。業界最大手のファナック(山梨県忍野村)は米ゼネラル・モーターズ(GM)と提携している。これに続く不二越(富山市)、川崎重工業(神戸市)はトヨタ自動車への納入実績を誇る。自動車メーカーに納入できない限り、どんなに頑張っても万年4位。ロボットメーカーとして世界ブランドを確立するなど夢のまた夢となる。

 岡本の情報通り、ホンダは、日欧米の6工場11ラインをコンパクトで効率のよいラインに全面的に見直す計画を立てていた。しかも子会社のホンダエンジニアリングが自前で作っていた産業用ロボットを外注に代えることも判明した。

 「何があってもこのチャンスを逃すな」。利島の勢いに押されるように、岡本らはホンダに売り込み攻勢をかけた。だが、生産ライン開発を担うホンダエンジニアリングの幹部は不安そうだった。

 「本当に安川電機さんにできるんですかね…」

 根拠のない不安ではなかった。当時、安川電機のアーク溶接用ロボットには定評があったが、完成車の生産ラインの主役となるスポット溶接用は作っていない。搬送用や組み立て用も機種は限られていた。

 それでも岡本は食らいついたら離れない。

 「ベースとなる技術力はあります。必死に勉強してどんなロボットでも作ります。何とぞ、何とぞ…」

 その熱心さにほだされたこともあるが、ホンダエンジニアリングの幹部らはこう考えたようだ。

 「汎用ロボットの完成度ならファナックなどの方が上だろう。しかし、ホンダが目指すのはユニークな車体作りだ。独自性の高い生産ラインを作るなら一緒に試行錯誤してくれるロボットメーカーの方がいいかもしれない」

 脈があるとみると、利島も、ホンダ本社(東京都港区)やホンダエンジニアリング本社(当時は埼玉県狭山市)に幾度となく乗り込み、「とにかくどんな無理難題でも言ってください。決してNOとは言いません」と十八番の“御用聞き営業”を繰り広げた。

 果たしてホンダエンジニアリングは10年、安川電機にメーンラインのロボットを発注した。

 ロボット事業部は沸きに沸いたが、喜んでいる暇はなかった。もし期待に応えられなければホンダに迷惑をかけるだけではすまない。安川電機の信用は地に落ちる。

 「さて、ロボット事業の命運をかけた開発を誰に任せるか…」

 利島が悩んでいると、鼻っ柱の強い若い技術者がいることを聞きつけた。

 設計技術者、小川昌寛(49)=現執行役員米州統括。当時は30歳代前半の若造だったが、上司に「本体とか、コントローラーとか、制御ソフトとか。それぞれを部門割りしては絶対に対応できません。プロジェクトチームを作るべきです」と噛(か)みついているというのだ。

 利島はすぐに小川を呼び付けた。

 「言うたからには、お前がプロジェクトリーダーをやれ」

 この鶴の一声で、各部門の精鋭を集めたチームを最年少の小川が率いることになった。あまりの若さにホンダエンジニアリングの責任者までが「こんな若い人で大丈夫なんですかね」と不安がったが、利島は「こいつをおいて他にいません」と太鼓判を押した。

 小川を抜擢した理由はもう1つある。なんと言ってもロボット事業部始まって以来のビッグプロジェクト。「過去の経験や職位は関係ない。新進気鋭の奴に賭けてみなければ、ホンダが納得するような結果は出せない」と考えたのだ。

 開発が始まってからは、息つく間もないほどの忙しさだった。通常1年かかる開発を「3カ月でやってくれ」と要求されたこともある。出荷前日の試作機チェックで「このアームは長すぎる。今すぐ切ってほしい」と注文されたこともあった。

 だが、小川は決して「NO」とは言わなかった。そしてユニークな産業用ロボットを続々と開発していった。

 「千手観音ロボット」もその1つ。4本の腕に8つの手首を持ち、自由自在に動きながら自動車のボディー8カ所を同時にスポット溶接する。生産ラインを短縮し、作業時間を減らしたいホンダのニーズに見事に応えた作品だった。

 こうして安川電機は平成11〜14年、国内外6工場11ラインに計1600台の新鋭ロボットを納めた。

 「安川はいくらでも無理を聞いてくれる」「仕事のスピードが他社とは全然違う」−。自動車メーカー間でこんな評判が広がるのにそれほど時間はかからなかった。

 「安川電機のロボットをブランド化できれば、顧客の方がやってくるようになる」。この利島の読みは現実のものとなり、安川電機は、ダイハツ工業、富士重工業、マツダ、韓国・現代自動車などロボットメーカー3強の牙城を次々に切り崩していった。

 ホンダのプロジェクトとほぼ同時進行で、利島は新たな産業用ロボット開発も指示していた。

 自動車ボディーの塗装ロボットだった。自動車ボディーは複雑な曲線を描いており、細部に至るまでの塗装は当時でも職人の技に頼るしかなかった。

 利島が工場を見学させてもらった際も、ゴーグルにマスク姿の工員が塗料の飛沫(しぶき)を浴びながら塗装していた。

 「こういうきつい作業はロボットが代った方がいいに決まっている。完璧な塗装ロボットを開発すれば、絶対に売れるぞ…」

 11年春ごろ、日立製作所が、子会社の自動車部品メーカー「トキコ」(川崎市)の塗装ロボット部門を売りに出す方針を決めた。

 買収の打診を受けた利島は早速役員会に提案した。

 「うちだって金があるわけじゃない。リスクが大きすぎる」と反対の声も上がったが、利島は「これからの時代は、溶接から塗装、ハンドリングまで色んなロボットをまとめて提案できなければ、国際競争に生き残れません」と頑として譲らなかった。

 第6代社長、橋本伸一(83)は最後にゴーサインを出した。

 当時、塗装ロボットは業界全体で月数十台ほどの小さな市場だった。当然開発コストがかさみ、1台当たり1500万円を超えた。

 だが、利島の付けた値段は1千万円以下だった。同業者は「安売りして価値を下げるな」と猛反発したが、利島はすました顔でこう言い返した。

 「値段を下げてたくさん売れば製造コストが下がってペイできる。みんなで塗装作業のロボット化を広めればいいじゃないか」

 またも狙いは当たった。世界中の自動車メーカーから塗装ロボットの注文が相次ぎ、今では安川電機だけで100台を超える月もある。

 安川電機の産業用ロボット「モートマン(MOTOMAN)」はすっかり世界ブランドとなった。15年には年間出荷台数1万台、累積で10万台を超え、利島の夢だった「世界一」は現実となった。

 安川電機にとってホンダは「命の恩人」であるとともに今も「一番のお得意様」である。

 なんと言っても社風が似ている。ホンダの創業者、本田宗一郎(1906〜1991)は「技術者の正装はツナギだ」と言い張り、天皇陛下の勲一等瑞宝章親授式に作業服で行こうとした逸話を持つほどの技術屋だった。技術開発に妥協の2文字はない。文系出身ながら二の句を継がせない「利島イズム」と通じるものがある。

 小川たちはそんなホンダの工場に足しげく通い、御用聞きを重ねながら多種多様なロボットを開発した。

 ホンダでのロボット開発でもっとも苦労したのが、ロボットの高密度な配置だった。ケーブル類がむき出しでは周辺機器等と接触し、故障につながりかねない。15年にケーブル内蔵化に成功したのはこの経験があったからだ。

 21年1月には世界初となる7軸ロボット「モートマンVS50」を開発した。関節数を6軸から7軸に増やしたことで人の腕と同じ可動域を実現し、狭いスペースでも障害物を避けながら作業できるようになった。

 ロボット開発担当課長、担当部長、技術部長として次々に先駆的なロボットを開発してきた小川は22年12月に渡米し、今は南北の米大陸の事業を統括する立場となった。その小川はこう語った。

 「どの工場にもさまざまな悩みがあります。何が必要かを聞くのではなく、その悩みを先に見抜き、何があればよいかを提案する。これが利島イズムの神髄です。ホンダでの経験を原点にどこまでも泥臭く世の中のニーズを嗅ぎ回り、未知なる分野にチャレンジする。技術者冥利に尽きるじゃないですか」

 顧客ニーズに応え続けた結果、安川電機のロボットは2千種を超えた。6年度に152億円だったロボット事業部の売上高は、24年度で1102億円となり、安川電機の連結売上高(3103億円)の36%を占める。(敬称略)

sankei.jp.msn.com(2014-04-09)