(けいざい神話)ホンダ 挑戦の系譜:2
「すべて鈴鹿で解決しろ」

 軽自動車Nシリーズを量産するホンダの鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)には、専用のIDカードがないと、社員でも入れない特別な部屋がある。

 社内で「SKI」と呼ばれる新組織の幹部が顔をそろえる場所だ。SKIは「鈴鹿・軽・イノベーション」の略。昨年発足して、開発から部品調達、生産、営業まで軽に関するものはほとんど手がける。

 例えば、毎週木曜の午前には、部品メーカーが提案してくるコスト削減のアイデアを検討する会議が、この部屋で開かれる。毎週水曜には、新型車開発の検討会も開かれるようになった。SKIの責任者・高村均(55)は「部門間の風通しが格段によくなり、開発スピードが上がった」と目を細める。

 かつての鈴鹿製作所とは大きく変わった。2年前まで所長だったホンダ常務執行役員の松本宜之(55)は語る。「責任を取る体制にないから、自分たちで何とかしようという緊迫感がなかった」

 ホンダは伝統的に、ホンダの研究開発の心臓部であり、新型車の開発の核心部を担ってきた本田技術研究所(栃木県芳賀町)の権限が強い。歴代の社長も、全員が研究所の出身だ。開発陣を研究所から切り離し、生産現場に移した例はなかった。

 SKIができたのは、「3・11」がきっかけだった。

 2011年3月の東日本大震災で、本田技術研究所も被災した。開発に着手していた軽自動車NBOX(エヌボックス)の開発陣も、鈴鹿に緊急避難する。社長の伊東孝紳はこれを機に、軽の開発陣を切り離し、鈴鹿に集約した。

 NBOXが発売された11年暮れ、伊東は、軽の事業にかかわる幹部を鈴鹿製作所に集め、こう語りかけた。「諸君は東を向くな。本社を向くな。すべて、ここで解決しろ」。東は、東京・青山の本社と栃木の研究所を意味していた。

 伊東は、開発陣だけでなく、予算を切り離し、決裁の権限も、すべて軽事業に関するものはSKIに移した。

 トップダウンで決めた伊東は振り返る。「社内の評価を得ようとすればするほど、最初はとんがった商品が丸くなってしまう。成功するためには、メンバーを囲う必要があった」

 しかし、前例のない方針転換に、現場には戸惑いも広がった。鈴鹿に技術者を出した研究所では、稼ぎ頭の北米向けの車の開発が花形部署で、「軽の優先順位は最下位」ともいわれていた。栃木の研究所から鈴鹿への異動を言い渡された軽の技術者のなかには、「都落ちだ」と落ち込む社員もいたという。

 「技術のホンダ」といわれ、開発者目線だった社内を変えるには、それだけの仕かけが必要だった。=敬称略
 (豊岡亮、木村裕明)

asahi.com(2013-08-28)