本田宗一郎氏と村上春樹氏の経営哲学

 新作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)が大評判の村上春樹氏は、小説家になる前の若いころ、ジャズ喫茶を経営していました。エッセイなどでたびたび触れられているので、ご存じの方も多いかもしれません。そんな村上氏は、店の経営に必要なこととして以下のように書いています。

「(前略)経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。」〔『走ることについて語るときに僕の語ること 』(文春文庫)、63ページ〕

 同書では、哲学の具体的な内容は示されていませんが、別の著作に次のような記述があります。それは村上氏のファンから「レストランを開くためのアドバイスを」求められた際の回答です。

「経営に関しては、最初から『もうけよう』と思わないことが意外と大事じゃないかと僕は思います。「もうからなくてもいい。おいしいものを、安く、雰囲気よく出したい。喜んでもらいたい」と思ってやっていると、けっこうそれでやっていけるものです。(後略)」〔『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」』(朝日新聞社)、107ページ〕

 これを読んでホンダの哲学のことを思い出しました。ホンダの元・経営企画部長の小林三郎氏は次のように指摘します。

「ホンダのイノベーションに関して、『その秘訣は何か』とよく聞かれる。『そんなものはない』と答える。あるいは『ホンダには哲学があるから』と話す。すると、『哲学ですか』と怪訝そうな顔をされる。」〔『ホンダ イノベーションの神髄』(日経BP社)、50ページ〕

 ホンダの哲学としては「3つの喜び」が有名ですが、本田宗一郎氏は3つの喜びの中の「買って喜ぶ」を最も重要と考えていたようです。

「おやじ(本田宗一郎氏のこと)は、『買って喜ぶ』を最も重要と考えていた。『製品の価値を最もよく知り、最後の審判を与えるものは(中略)、製品を使用する購入者その人である。ああ、この品を買ってよかったという喜びこそ、製品の価値の上に置かれた栄冠である』と宣言している」(前掲書55ページ)

 村上氏の「(お客に)喜んでもらいたい」という考えと、本田氏の「この品を買ってよかったという(顧客の)喜びこそ、製品の価値の上に置かれた栄冠である」という考えには、何か相通ずるものがあるような気がします。世界的な自動車メーカーを築き上げた本田氏と、世界的な作家である村上氏は、年齢も活動分野も全く違い、一緒に語られることはほとんどありませんが、基本的な考え方は近いのかもしれません。
<<高田 憲一=日経ものづくり>>

nikkeibp.co.jp(2013-05-22)