ソニー再起 本田宗一郎の警句

 かつての輝きを失ったソニー。最後の大型ヒット商品「プレイステーション」の発売からまもなく18年になる。再起を託されたのは51歳の平井一夫。創業者の盛田昭夫を入社式でしか見たことがない平井世代は、果たしてソニーを救えるのか。

 「これだけは約束してほしい」。3月中旬、東京都港区のソニー本社ビル20階にある役員会議室。2週間後に社長になる平井は、居並ぶ新経営陣の顔を見渡した。

 「6カ月後に『あの時俺は違うと思った』と言うのは、なしだ。違うと思うなら今、言ってくれ」。その気迫に押されたのか、平井の再建方針に異論は出なかった。

 平井が掲げたスローガンは「ワン・ソニー、ワン・マネジメント」。逆に言えば、これまでいくつものソニーと、いくつものマネジメントがあったことになる。

 米国暮らしが長い平井の言葉を借りれば「アライメント(統一感)とスピードが足りないマネジメント」が続いた結果、テレビ事業は8期連続の営業赤字、ソニー本体の最終損益も4期連続の赤字に沈んだ。

 ソニーを襲った長き停滞。はるか昔にそれを予見した男がいる。ホンダ創業者の本田宗一郎だ。

 本田は親交の深かったソニー創業者の井深大に頼まれ、ソニーの部課長の前で一度だけ講演した。1976年10月のことである。本田は好きな将棋を引き合いに出してこう言った。

 「ぼかぁ、いっぺん王様抜きで将棋を指してみたい。王様を守らなくていいんだから、楽だ。(自分の将棋はへぼ将棋だが)升田幸三名人は『あんたのところは歩をうまく使っている』と褒めてくれた。升田さんによると、歩をうまく使うのが名人だそうだ」

 この年、ソニーの創業者、盛田昭夫が社長を退いた。いつまでも盛田のような「王様」に頼っていては成長が止まる。73年に右腕の藤沢武夫とともに社長・副社長を退く鮮やかな退任劇を演じた本田ならではの警句だったが、その後もソニーは王様に頼り続けた。

 社用機ファルコンの操縦かんを握り、ベルリン・フィルハーモニーを指揮した大賀典雄。ダボス会議で世界の要人と丁々発止の議論を交わした出井伸之。米放送業界の大立者で母国英国ではナイトの爵位を持つハワード・ストリンガー。歴代ソニーの最高経営責任者(CEO)は常に近寄りがたい王様だった。

 しかし自陣で王様を守ることにエネルギーを費やした結果、ソニーは勢いを失った。敵陣に飛び込んで金になろうという野心を持つ社員の多くが、会社を去っていった。

 平井は今、盛田時代から続いたカリスマ型のスタイルを変えようとしている。

 社長就任3日目の4月3日、平井は東日本大震災で被災した宮城県の工場(多賀城市)にいた。「自分たちはこれからどうなるのか」。平井は不安を訴える社員の声に耳を傾け、会社の厳しい実情を丁寧に説明した。「自分が社員だったら、きれいごとより腹に落ちる話を聞きたいでしょ」。6月下旬、ソニーは同県などで手掛ける化学事業を日本政策投資銀行に売却すると発表した。

 仙台を皮切りに平井は世界を駆け巡った。タイ、マレーシア、米国(4都市)、ブラジル(2都市)、中国(5都市)、インド(2都市)、ドイツ。半年間の移動距離は17万キロメートル。地球4周分を超えた。  「ふうん、これは対策を考えないとね」。インドのサービスセンターでは液晶テレビの縁に積もった砂埃を指でぬぐい、思案顔になった。「こういうのは、パワポ(パワーポイント=パソコンで発表資料を作るソフト)の小さな写真で見ても分からない」

 訪れた事業所で開くミーティングには昼の部と夜の部がある。昼はかしこまっている社員も、アルコールの入る夜になると「この際だから聞きますけどね」と絡んでくる。研究開発拠点の厚木テクノロジーセンター(厚木市)にはすでに2度足を運んだ。前任のストリンガーは7年間で1度しか厚木を訪れていない。

 ソニーCEOはかくあるべし、という固定観念が平井にはない。歴代CEOが決めた重要な方針も、時にあっさりひっくり返す。なぜそんなことができるのか。「その時自分はソニーの社員じゃなかったからね」と平井は言う。音楽、ゲームの子会社から一気にトップに駆け上がった平井自身、金になった「歩」なのかもしれない。(敬称略)

nikkei.com(2012-10-01)