戻る(ここをクリック)

第二回 『バブル期の制度疲労への対応が企業文化変質の契機』

 慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)が次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに開設する「Executive MBA」。4月の授業に登壇したホンダ元専務執行役員の岩田秀信氏はリーマンショック後に赴任した北米ホンダでホンダフィロソフィーの形骸化、企業文化の風化という危機を目の当たりにした。

 その危機は、米国など海外の価値観からの変質圧力などにも起因するが、元をたどれば1980年代後半、バブル期の日本ホンダにおける実力を無視した拡大路線に端を発していたと岩田氏は振り返る。成長著しい企業が事業規模を拡大していく段階で何が起きていたのか。岩田氏の目に映ったホンダ変質の要因とは。

振り返って考えると、転換点は「バブル期」

 2009年、リーマンショック後に赴任したホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)で、私はホンダフィロソフィーの形骸化、企業文化の風化という危機にさらされ、かつてのビッグ3を想起させるような状況を目の当たりにしました。

 ではなぜ30年以上の歴史があるHAMにおいても、ホンダフィロソフィーが形骸化し風化してしまったのか。これは私の実体験からの意見ですが、主な原因はやはり日本のホンダの企業文化の変質にあると私は思います。

 ホンダフィロソフィーの形骸化、風化はいつ芽生えたのか。振り返って考えると、1980年代後半、バブル期にさかのぼります。

 バブル期、他の自動車メーカーと同様に、ホンダは「車が売れに売れて仕方がない」という状況にありました。そこでホンダは大型投資への懸念を抱きつつも国内外で現場の実力を越えた「3大プロジェクト」に挑みます。 3大プロジェクトとは鈴鹿製作所での新工場建設、米国オハイオ州での第3工場建設、ホンダの主力車である4代目「アコード」の新機種量産化計画です。

 当時のホンダの生産領域の実力からすれば、新工場を1つ建設し、同時にグローバルモデルを1つ手がける程度が精一杯だったと思います。しかし当時の経営陣はこれら3つの大きなプロジェクトに「GO」サインを出してしまいました。バブルの最盛期という環境が、他社に対して出遅れ感のあったホンダに決断を余儀なくさせたということが事実ではないかと思います。

正論が議論しづらい雰囲気に

 しかし、身近な経営幹部の何人かは、この時期に蔓延しつつあった、「正論が議論しづらい社内環境」も大きな要因の一つであったと述懐しています。

 過大なプロジェクトを抱え込んだ結果、ホンダは大混乱に陥りました。現場の実力を遥かに超える仕事量に加え、独創性を求める気風もあり、新工場建設、新モデル開発には意欲的に新しい技術を盛り込もうとしていました。

 しかし、仕事量の軽減対策として導入したアウトソーシングでもホンダ担当の企画自体の遅延や、企画精度の悪化はさけられず、さらに技術の量産性検証などが不十分だったため、結果的に国内外で大きな損失を発生させてしまいました。さらにそれに続いて、バブル崩壊直前には当時としては革新的なオールアルミ製ボディ?のNSXの販売が開始され、そのための専用工場建設も実行されました。

 そのタイミングでバブルが崩壊します。大型投資による過大な償却負担に加え、新商品の販売低迷、その後1990年代半ばに至るまで円の上昇が続き、ホンダは深刻な経営危機に陥りました。

意思決定の仕組みが、成長スピードに合わなくなった

 バブル後にホンダが経営危機に陥ったのは、1980年代後半、過大な3大プロジェクトに挑んだことが1つの要因だと説明しました。「イケイケ」のバブル期だったとはいえ、なぜこれほど無謀な挑戦をしてしまったのか。その背景には、ホンダの成長スピードに、ホンダ独特の意思決定の仕組みが対応できなくなったことが大きく影響したと私は考えています。

 ホンダは「文鎮型」のフラットな組織を特徴としていました。ほとんどの仕事は組織から選抜されたメンバーで構成するプロジェクトチーム単位で動きます。プロジェクトチームのリーダーが直接経営トップに報告し、決裁を仰ぐ形でプロジェクトが進んでいたのです。

 「GO」サインが出れば、すべての権限はプロジェクトチームに権限委譲されます。プロジェクトチームのメンバーには当然、組織上の上司がいますが、その上司の評価をあまり気にするようなことはありません。とにかく「経営トップに評価される良い仕事をしさえすればよい」いうマインドで仕事をしていました。

 新たなプロジェクトは企画コンセプトの承認や、アイデアの確からしさなどを評価する評価会にかけられます。創業者の本田宗一郎さんが経営トップにいた時には、コストだの競争力だのと言う前に、真っ先に「そのアイデアは独創的なものなのか」「物まねじゃないか」「みんなが夢を持てるか」と問いかけていました。

 さらに、本田宗一郎さんの薫陶を受けた経営陣、中堅幹部からも、「世のため、人のためになっているか」「お前が考える『あるべき姿』はなんだ」、といった一見、青臭いと見られかねない議論が日常の業務の中に定着していたのです。

 こうした経営幹部とのダイレクトな議論や、リーダーの方々の発言や行動から、ホンダという会社が何を大切にしているのか、理念やフィロソフィーとはどんなことなのかについて言葉としてではなく、実感として理解できたのです。

「あるべき姿を考えろ」「人まねするな」という創業者の教え

 ホンダが初めて産業用ロボットを開発するにあたってこんなエピソードがありました。

 当時は4輪車のホワイトボディーのスポット溶接作業は大変な重労働でした。これを見た本田さんは、「こんな作業を従業員にさせてはいけない」と、即座にロボット開発を指示されました。

 しかし、ホンダエンジニアリングの開発チームは、アメリカなどで先行導入されていた溶接ロボットをモデルとして初号機を開発したことから、本田さんに「人のまねなんかするな!」と怒鳴られたということです。

 本田さんが言わんとするところは、「人間が行う作業をそのまま機械に置き換えても、生産性で優位性は生まれない」ということでした。単に人の仕事を機械に置き換えるという発想ではなく、ホンダの生産ラインはいかにあるべきか。その「あるべき姿」から発想し、自分たち自身で一番良いものを考えるべきだというのが本田さんの教えでした。

経営トップへの負荷が重くなりすぎた

 本田さんの指摘がきっかけとなって、チームは小型で、作業内容に特化した独創的なロボットシリーズを開発しました。重労働作業からの解放とともに、人間の作業よりも3倍以上の生産性を実現することができたのです。こうした「あるべき姿」論から発想したホンダの数々の生産技術は、個々では一見不合理にみえても工場全体として融合すれば大きな競争力を生む原動力となっていたのです。

 創業者、あるいは創業者の哲学を引き継いだ経営トップとのダイレクトなコミュニケーションで絶えず「あるべき姿を考えろ」「人まねするな」と言われ続けたことは企業文化の形成、継承、さらにはスピード経営の実現にきわめて重要な役割を果たしていました。ホンダ独自の文鎮型組織と評価会制度は素晴らしい経営手法であったと私は思います。

 しかし、ホンダの事業規模拡大につれて文鎮型評価制度の持つ良い面が変質していきました。それは事業規模の拡大により、プロジェクトの絶対数が増えるとともに、広範囲な業容へのより深い造詣がもとめられる様になったことが原因でした。量、質ともに、文鎮組織の要である経営トップへの負荷が重くなりすぎたのです。

 トップが決裁にかけられる時間は短くなり、議論も思考時間も足りないまま決断せざるを得なくなったため、判断の質が低下してしまいました。経営トップの多忙なスケジュールを縫って評価の時間を確保しようとしたことで、経営のスピードも落ちてしまいました。また文鎮型評価制度を補完するために重要な役割をはたしていた、経営陣と機能組織リーダーとの方針、情報の共有化が形骸化していたことも現場の実態を顧みない決定がくだされた大きな要因でした。

 3大プロジェクトの強行による大混乱がきっかけになりましたが、これはカリスマ的創業者を中心とした、中小企業的な経営手法の延長で運営して来た意思決定手法が、事業規模の拡大により制度疲労に陥ったことが原因であったと私は思っています。

「ワイガヤ」廃止など、方針の大転換

 バブル期以降に直面した経営危機を乗り越えるため、1990年に第4代ホンダ社長に就任した川本信彦氏は大胆な方針転換を指示しました。

 1つは「ワイガヤ」の廃止。ワイガヤとは「役職や年齢、性別を越えて気軽に『ワイワイガヤガヤ』と話し合う」というというもので、ホンダのオープンな組織文化を代表するコミュニケーションの方法として知られています。けれども、川本氏は危機の時代にワイガヤをやるのは時間の浪費だと考えて、トップダウンで社長が指示し実行させるやり方に変えました。

 独創性や夢を追い求める方針も変わりました。それまでのホンダには「人と違うことをやってやろう」「夢を実現しよう」という意気込みが満ちていましたが、生産現場の大混乱とバブル経済の崩壊による事業低迷の中では、誰もが夢をかたれるような状況にはありませんでした。そして「あるべき姿」よりも、効果や効率が最優先となり、「対他競争力はあるか」「コストで勝てるのか」といった基準で評価するようになっていきました。「違い」よりも「差」を追求する企業体質への変質が始まりました。

制度疲労や方針転換など、様々な要因が重なった

 意思決定の仕組みも変化しました。それまでのホンダは、前に説明した通り、主要な業務のほとんどをプロジェクトチームが担っていました。ところが、危機の時代には、こうしたプロジェクトへの権限委譲が行き過ぎだったと判断され、組織の保証が必要だということになりました。

 実際、それまでプロジェクトチームには各領域の実務責任者の名前が入っていましたが、一時期はすべてのプロジェクトに組織の長である課長や部長の名前が入るようになりました。「自分の名前が登録される」ことを励みに頑張っていた人たちからすれば、自分が担当するプロジェクトに課長や部長の名前しか表記されないようになり、業務への的確な指示もされない状況に多くの人が「やってられない」と不満を口にするようになりました。

 さすがにすべてのプロジェクトに組織の長の名前を登録することは変更になりましたが、組織保証の考え方はますます強化され、決済評価会へ臨むまえの関係機能組織長の事前承認がルール化され、かつての経営のスピード感が失われていくとともに、「個の尊重」を基本とした運営方針で、権限委譲により実力以上の力を発揮してきた環境が目に見えて変わっていきました。

 企業の成長期に起きた制度疲労、危機への対応のための方針転換など様々な要因が重なりましたが、ほぼ10年に渡るこうした環境の変化が、ホンダの企業文化や、人材育成に大きな負の影響を残したと私は考えています。

 プロジェクトや個人の働き方という対症療法に関心が向けられ、本質的な経営手法の「変化点」や課題を放置したことから、ホンダの企業文化は徐々に変質していったのです。

(了)

岩田 秀信(2020-08-04)

戻る(ここをクリック)