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第一回 『企業文化の形骸化を浮き彫りにしたリーマンショック』

 慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)は次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに特化した学位プログラム「Executive MBA」を開設している。「EMBA」プログラムの目玉の1つが、企業経営者らの講演と討論を通して、自身のリーダーシップや経営哲学を確立する力を養う「経営者討論科目」。日経ビジネスオンラインではその一部の授業を掲載していく。

 4月、2016年度初回の経営者討論科目が開かれた。登壇したのはホンダ元専務執行役員の岩田秀信氏。リーマンショック後の逆風下、岩田氏は赴任した米ホンダで、ホンダならではの企業文化が変質しつつあるという危機に直面した。異国の地で、現地スタッフと心を通わせながら、いかにホンダフィロソフィーの継承・発展に努めたか。岩田氏の貴重な体験談からはグローバル化を進める企業に共通する問題解決のための考え方や手法のヒントが得られるはずだ。
(取材・構成:小林佳代)

(プロフィール)
岩田 秀信(いわた・ひでのぶ)氏
元ホンダ専務執行役員
1978年名古屋大学院修了。本田技研工業に入社。ホンダエンジニアリング、ホンダエンジニアリングノースアメリカでの勤務を経て2005年ホンダ執行役員、ホンダエンジニアリング社長、2007年鈴鹿製作所長に就任。2008年ホンダ常務執行役員、2009年ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリングのCEO(最高経営責任者)に。2011年ホンダ専務執行役員を務め、2014年に退職。社友に。 

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 本日は向学心あふれる皆さんとグローバル化とそれに伴う企業文化の風化について議論ができる機会が頂けるということで楽しみにしておりました。現在グローバル化を進める日本企業は非常に多く存在します。しかしそうした環境に置かれた多くの企業でも異国の地で自社の企業文化の継承や、発展について試行錯誤を繰り返しながらも有るべき姿を見いだせていないというのが実情ではないでしょうか。ホンダも例外ではありません。

 本日私がお話しするのは、リーマンショックという大きな変化点直後の2009年に北米のホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)のCEOとして赴任し、経験したことを題材にしています。幸いにもこのタイミングであったからこそ右肩上がりの状況では見えていなかった数々の負の体質が顕在化し、ホンダが目指していた企業文化定着の難しさを体験できたと思っています。私が体験し、会得出来た事はホンダ特有の事が多々有るとは思いますが、多くの企業の方々にもその考え方や手法、あるいは万国共通で活かせるマネージメント思想の在り方などについて参考にしていただければ幸いです。

 簡単に経歴を紹介させていただきます。私はホンダに入社後、工場での2年間の実務を経てホンダエンジニアリングという、ホンダグループ中で生産技術の開発と生産設備製造を担当している別会社に転籍しました。本田技術研究所が商品開発を担当し、ホンダはその商品の生産と販売をするという役割になっています。ホンダエンジニアリングは四輪、二輪、航空機などすべての製品に関連した生産技術の研究開発や生産設備製造を行っていますが、私が担当したのは4輪車体の骨格ボデーの生産ラインの企画、製造でした。いかに効率良く自動化を実現しながら良い品質の4輪ボデーを生産するかを追求してきました。入社後10年ほどは独創的なモノを生み出そうという意識の強い風土の中で、私自身も自由にアイデアを提案し、其のアイデアを生産ラインで実際に実現出来るというわくわくする様な環境の中で仕事に向き合うことができたと感じています。そうしたエンジニアとしての良き時代と、その後のホンダの経営危機の時代、そして本格的なグローバル展開の時代を現場の担当者として、製作所所長として、最後に経営メンバーとして異なる視点からホンダを見てきましたのでホンダの企業文化の風化について少しは客観的な見方でのお話が出来るのではないかと思っています。

 ホンダの4輪事業概要についてですが、ホンダの中で北米は非常に重要な位置を占めています。現在ホンダがグローバルに生産する四輪車は460万台〜480万台。日本の生産能力は100万台ですが、実際に生産しているのは80万〜90万台ほどです。中国では現在90万台を生産していますが、今年中には100万台に到達するだろうといわれています。これに対して北米は約200万台で、ホンダがグローバルに生産する四輪車の40%を占めています。

 そうした大きな役割をになう北米の多くの生産現法のなかでも歴史が長く、中心的な役割を担っていたHAMに私は2009年春に赴任をしました。それはリーマンショックが起きてから半年ほどたった時期でした。当時はリーマンショックに端を発する景気低迷により、工場は大幅減産を余儀なくされ、希望退職者を募るほど経営環境が悪化していました。

 実はリーマンショック直前まで、北米ホンダは絶好調でした。2005年、北米でトラック市場に参入。「シビック」などの小型車も燃費の良さが受け、爆発的に売れていました。そのような環境下で、北米ホンダはカナダにエンジン工場を、また米インディアナ州に四輪工場を新たにつくるという大型投資を断行します。ところが、まさにこれらの工場が稼働開始した直後に、リーマンショックが襲いかかりました。リーマンショックによってホンダが受けたダメージは競合他社とは比較にならないほど大きかったはずです。

 私がHAMに赴任した際、工場のラインを回ると、あちこちに希望退職を募る窓口があり、それぞれに従業員が何十人も並んで申し込みをしていました。その異様とも言える光景を目の当たりにして、「これは本当に大変な状況に追い込まれた。」と不安感に捕われたのを覚えています。

途方に暮れる私にベテラン工場長が教えてくれたこと

 ホンダは従業員のことを「アソシエート」と呼びます。HAMではリーマンショック後の厳しい環境の中、重要な仕事を任されている「キーアソシエート」の10%以上が連続的にHAMを去って行きました。

 こうなると残ったアソシエートも不安でたまらなくなります。アソシエートたちはみな浮き足立ち、HAMのラインは大いに混乱していました。現業部門とサポート部門との間にははっきりとわかるほどの対立が生じ、製造業の基本である5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)にすら乱れが見えました。

 ある日、工場を回っていると、ひとりのアソシエートからこう問い掛けられました。

 「ヒデ、今のホンダにホンダフィロソフィーは残っていると思うか?」

 正直なところ、この問いかけにはドキッとして、しばらく言葉が出てきませんでした。リーダーとしてやらねばならないことが山のようにあるのは間違いありません。けれど、いったい何から手をつければ良いのか。正直なところ、途方に暮れるばかりでした。

 そんな時、ヒントをくれた人がいました。その人とは、私よりも少し前にブラジルから異動してきたベテランの工場長です。彼は毎朝、工場を巡回する際に当たり前のこととして工場内に落ちているゴミを拾っていました。ボルトが落ちていたらボルトを拾い、あるべき元の箱へ戻す。こういうことを1カ月ぐらいやり続けていたのです。

 ある時、いつものように工場長がボルトを拾っているのを見て、1人のアソシエートが「そのボルトを俺にくれ」と言ってきました。工場長が「なぜ?」と聞くと、彼は「工場をきれいに整えるのは俺たちの仕事だから」と答えたそうです。

 おそらく「やるべきことをきちんとやる」ことに徹していた日本人工場長の行動が、アソシエートたちのプライドを刺激し、ものづくりの基本精神を呼び覚ましたのでしょう。

 この話を聞いた時、私は「この工場には高い志、プライドを持ったアソシエートがいる」と改めて気づきました。そして、「アソシエートたちが明確な方針や目的を理解しさえすれば、彼らはすばらしい能力を発揮するに違いない」と確信したのです。

 問題が山積する中、いったい何から手をつければ良いかと途方に暮れていた私は、「ホンダフィロソフィーの原点に立ち返り、アソシエートとともに働く喜びを分かち合える、より良い環境をつくることに注力しよう」と思い至りました。

 では、原点に立ち返るべきホンダフィロソフィーとは何でしょうか。ここで簡単にご紹介しておきましょう。

 ホンダフィロソフィーは「人間尊重」「(買う、売る、創る)と「3つの喜び」から成る「基本理念」と、「常に夢と若さを保つこと」「理論とアイデアと時間を尊重すること」といった要素から成る「運営方針」で構成されています。ここから生まれる自由闊達さ、チャレンジ精神、誠意、誠実さこそがホンダの企業文化と呼ぶべきものです。

 しかし、徐々に人間尊重、平等、チャレンジといったホンダフィロソフィーにも変質が生じていました。HAMにおいても、2009年当時、その企業文化は形骸化の危機にありました。

 ホンダフィロソフィーの形骸化はHAMで「エグゼンプト」「ノンエグゼンプト」の格差拡大という形で表れていました。

 エグゼンプトとは年俸制で働き、仕事の成果次第で評価が変わるような従業員のこと。高い学歴を持つ人が中心です。一方、ノンエグゼンプトは時間給で働き評価による賃金差がない従業員のことです。実はHAMでは採用の段階からこの2階層が明確に分かれています。HAMを設立した当時は、両者に分け隔てなくホンダフィロソフィーの理解と定着化を進めていましたが、30年以上が経過した職場の実態はホンダフィロソフィーが同じように認識され、共有されているとは言える状態ではありませんでした。

 ホンダが基本理念に掲げていた人間尊重とは、経営階層、労働階層といった分け隔てなく同じ仲間意識を持つことがベースにあります。対等意識、平等意識が希薄になれば、ホンダで働くことのプライドも薄れてしまいます。

 現場のアソシエートからはリーダー層に対して、コミュニケーション不足や現場への参画意識の薄さなどへの不満、不信が募っていました。学歴に関係なく昇進の機会を得られていたはずの人事にも停滞が目につきました。

 かつては提案制度なども盛んで、アソシエイツは自分たちのアイデアを生かす機会に恵まれていました。しかし、それも事業環境の悪化に伴い組織の利害が優先されがちになっていました。
また事業運営を担う中核的なアソシエイツや経営層のなかでも、かつてのスピード感のある事業運営姿勢が薄れ、企画をする際に、組織の意向を組んだ提案を強いられたり、組織のリーダーに根回したりするのに多大な時間がかかるといったことへの根強い不満が起きていたのです。

 こういう環境下で、問題解決に当たるべき日本人駐在員は影が薄く、ごく狭い範囲の技術指導や情報伝達という役割を果たすにとどまっていました。

 全員に何らかのチャンスが与えられ、希望に満ちていたはずの組織は大きく変容してしまっていたのです。

 こうしたホンダフィロソフィーの形骸化、企業文化の風化はリーマンショックだけが原因ではありません。個人的な意見ですが、私はその根底には、1980年代後半から徐々に進行した日本のホンダの企業文化変質という根深い問題があったのだと考えています。 

 果たして日本のホンダではどういう変化が起きていたのか。次はバブル期にさかのぼり、その変容ぶりを見ていきましょう。

(了)

岩田 秀信(2020-08-03)

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