鈴鹿サーキット50年 “生みの親”が語る誕生秘話

 鈴鹿サーキット(三重県)が9月で誕生から丸50年を迎える。数々の名勝負の舞台となり、日本のモータースポーツ文化の土台となった同サーキットはホンダ創業者、本田宗一郎氏の鶴の一声で建設が決まった。特命を受けて開設に奔走し、のちに支配人を務めた塩崎定夫さん(86)が、ホンダのDNAが色濃く残るコースの誕生秘話を明かす。

■スーパーカブに通じる独創

 鈴鹿サーキットが開場した1962年ごろは多くがまだ「モータースポーツ」という言葉も知らず、ギャンブルのレースと区別がつかないような状態だった。

 そんな時代にサーキットの建設を思いついた本田宗一郎氏。鈴鹿サーキットはホンダが1958年に発売、世界的な大ヒットとなった二輪車「スーパーカブ」と同様に、カリスマ経営者の先見の明が表れた作品だと塩崎さんは語る。

 「本田さんはスーパーカブを『自転車をつくるのではない。片手でも運転でき、そば屋が出前に行けるようにしろ。面倒くさいチェンジレバーをつけずに、足だけでバンバン踏めるように。値段は5万5000円』と指示した」

 「発想が具体的ですごかった。ものの見方は職人だけれども、天才だった。全部決めてかかってくる。5万5000円は当時やっと出てきたテレビと同じくらい高価だったけど、それでもスーパーカブは飛ぶように売れた。本田さんは『人間は欲しいものがあれば、いくら出しても買うんだ』と話していた」

 スーパーカブの大ヒットで工場はフル稼働。それでも生産が追いつかなかった。埼玉の工場で課長だった塩崎さんは新工場開設の担当者に命じられ、土地を探し歩いた。そこから鈴鹿との縁が始まる。

■カリスマ経営者を満足させた鈴鹿の地

 「本田さんは最初『トヨタの目の前に新工場をつくって、そこで戦うんだ。そうしなければ世界一にはなれん』と指示した。すごい発想ですよ。私は本当にトヨタの前まで行ったけど、その土地にはトヨタの下請けがいて、『冗談じゃない』と受け入れてくれなかった」

 「あちこち土地を探したけれど、なかなか決まらなかった。本田さんはいつも同行して、そこの市長とか町をつかさどっている人に必ずダイレクトに質問するけれど、だいたいの市長は部下に聞くばかりで、自分では何も答えられなかった。だが、鈴鹿に行ったときは違った。市長の杉本龍造さんは几帳面というか、誠実そのものの人で、何を聞いても、正確にきちんと答えられた。加えて、鈴鹿の土地は25万坪(82ヘクタールあまり)もあってとにかく広かった」

 「現地を案内してもらい、一緒に小高い丘に登ったとき、杉本さんがさっと手を上げた。すると白い布が一斉にバーッと上がって敷地を示してくれた。職員が手配されていた。杉本さんもやることが見事で、本田さんが『工場の立地条件はな、水があるとか電気があるとかではない。そこの自治体の人がどれだけ誠実さがあるのか、人で決めろ』とその日のうちに鈴鹿に決まった」

 天才経営者の心をたちまちつかんでしまった鈴鹿市長も相当の才人だったようだ。

 鈴鹿の地に新工場を建設するかたわら、国際的なシェア拡大にはレースでのアピールが欠かせないと考えたホンダは59年、英国の伝統的な二輪車レース『マン島TTレース』に初出場する。

 「TTレースに出た本田さんは『1年に1回しかレースがなくて(終わったら)また来年と。俺はそんなに長生きできないから、早く世界一になりたい。近くにレース場があればいいんだが』と言い出した。いろいろレース場の土地を探した結果、結局鈴鹿の工場近くに建設が決まった」

■「田畑はつぶすな、金はかけるな」

「私がコースデザインの原案を考えたけれど、初めは我流。車やバイクがスタートしたきりでなかなか帰ってこないというのではいけないから、1周6キロくらいで2〜3分で回ってこれると、見てる方も走る方も楽しいと。本田さんから出された条件は『田んぼと畑は潰すな』『山は使え、金はかけるな』。地形を考えた結果、現在のようなコースになった」

 海外のレース場の視察を命じられ、60年末にオランダや西ドイツなど欧州に渡る。

 「誰も知らない日本の塩崎という者がつくったコースでは走ってくれないから、外国人を連れてこいと。欧州に行く前に模型をつくった。模型をつくればどこが難しいとか出てくるから、疑問点を絞って現場に行った。現地調査も重点的に気になったところだけ調べたし、特に難しいところはなかった。ただ、立体交差は原案では最初3つあったけど、『立体は危ない』と反対され、最終的に1カ所だけになった」

 「外国人は知り合いから紹介され、オランダのサーキットを設計していたフーゲンホルツ氏にコースの監修を依頼して来日してもらった。また西ドイツのニュルブルクリンクに行ったときは、こっそりと靴べらでガリガリとコースの路面を削って、舗装の材料を持って帰って、日本鋪道に分析してもらった」

 「みなさん素材を持って帰る発想がすごいと言うけれど、これは本田さんの教え。人は口で言っても分からないし、見たものじゃないと信じないからね」

 原案から立体交差の数を減らすなど修正を重ねてコースのデザインが最終決定した。ただ、完成までには住民の反対運動など曲折があった。

■オートレースとどこが違うのか

 「『モータースポーツ』そのものが新しい言葉で、オートレース場のイメージがあったのだと思う。ギャンブルで治安が悪くなると言われて、鈴鹿全体が反対のムードになった時期もあった」

 「一升瓶の箱をいくつも用意して、酒盛りもやった。『サーキットというのは自動車のテストコースの延長だ。結果的には競争するけれど、勝つか負けるかによって車の性能がわかる。オートレースとは目的が違う』と住民に説得して了承してもらった」

 「工事が始まると、山の上の方から泥水が流れて下の田んぼや畑を埋めちゃったこともあった。建設業者に泥を取らせて、元に戻してね。模擬テストをしたら、音がすごくて、農家から『鶏が卵を産まなくなる』とか苦情を寄せられた」

 62年9月に鈴鹿サーキットは竣工。11月に行われたオープニングレースの二輪の「全日本選手権ロードレース」は1日で15万人以上の観客を動員した。

 「十何万人も人が来たからサーキット周辺の道という道に全部車が止められた。お客さんは音で興奮して、レース中に10人、20人とコースを横切ってしまった。ガードレールのところまで人が出てきて、その横を200キロで通過する。最初は見る人もレースをわかっていなかった。事故もなく終えられてよかった」

 モータースポーツはその後、日本に根付き、鈴鹿のコースは今も世界のドライバーらから称賛される。

 「(亡くなったF1ドライバーの)アイルトン・セナも褒めてくれた。『鈴鹿は素晴らしいコースだ。非常に難しいコースだけれど、それだけに面白い』と」

 今ではモータースポーツにつきものとなったレースクイーンも、最初はどこでどう探せばいいのかすらわからなかった。

 「雑誌の平凡パンチさんを通じて募集したら、全国から数百人の応募があった。それから30人くらいに絞った。あれは楽しい思い出ですね」

■日本車を世界に打ち上げたサーキット

 日本のレース文化を本田宗一郎との二人三脚で編んできた。

 「自分が生まれた浜松の近くに本田さんがいて、出会えたことが大きかった。実の父以上に自分の人生の父だと思う。今の会社は重役だと社員と距離があるけれど、当時は町工場の延長だった。おやじというか、そういう師匠である社長と相対で一生懸命仕事をしたというのは非常にいい思い出」

 「まだ名神高速や東名高速が開通していなかった時代。車が100キロ、200キロで走るなんて、そんなバカなという感じさえあった。鈴鹿のサーキットにはトヨタも日産もマツダも来てくれた。それまで自動車は欧州や米国のものだと思われていたけれど、日本の車が世界のレベルにこれから上がっていくのだなという思いがあった。そんなことを考えると、今のモータースポーツの発展はうれしく思う」

(聞き手は運動部・金子英介、冒頭の1枚をのぞき、写真はすべて塩崎さん提供)

nikkei.com(2012-08-30)