「バカヤロー、2位もビリも同じだ」
(福井威夫氏の経営者ブログ)

 創業者、本田宗一郎さんと濃密な時間を過ごすようになるのはだいぶ後になる。1982年、37歳でホンダの二輪車レース活動を担うグループ会社「ホンダ・レーシング(HRC)」に異動してからのことだ。

 忘れもしない1985年の二輪車ロードレース「ワールドグランプリ(WGP)」。前年にホンダのチームは500ccのクラスで優勝を逃し、タイトルの奪還が至上命題だった。WGPは全12戦。南アフリカで開催された第1戦はマシンの開発が間に合わず、2位に終わったが、敗因を分析したところ、対策を打ちさえすれば、シーズンを戦えるメドが立ち、タイトルを獲得する確信を持った。

 帰国して、タイトル奪還は安心して下さいと伝えようと、「結果は2位でしたが・・」と本田さんに切り出すと、割れんばかりの声が耳をつんざいた。

 「バカヤロー、2位もビリも同じだ」

 2位とビリは同じでないだろうと言い返したい気持ちを飲み込み、たっぷり1時間怒られた。帰り際に本田さんはあれをやってみろ、これをやってみろと提案していった。その1つにピストンの新作があった。提案されたのは金曜日。週が明けた月曜日に本田さんから電話がかかってきた。

 「できたか」

 「はい、やっています」

 答えるやいなや受話器から怒鳴り声が飛んできた。

 「やっていますとは何事か。俺が一生懸命に提案しているのに、まだできてないのか」

 ピストンを作るのに通常なら1カ月かけてテストを繰り返す。土日の2日間でできるわけがない。

 「明日行くから用意しておけ」

 我々技術陣は一泡吹かせようと、夜通し開発にいそしんだ。翌朝、待っていましたとばかりにやってきた本田さんに一晩の成果を説明したが、まだ足りないと映ったのだろう。結局、その日、我々は夕方までずっと怒られた。

 当時、本田さんは80歳近くで、社長から最高顧問に退いて10年近くがたっていた。社会的に見れば、ホンダという大きな会社の創業者で、雲の上の存在であってもおかしくないが、目線は昔と変わらず現場の技術者と同じだった。幾つになっても侃々諤々議論するのが好きな“技術屋”であり、クルマ作りに対する情熱に満ちあふれていた。怒られるたびに、落ち込むどころか、その熱い思いに負けてはいられないと現場の士気も高まった。

 結局、その年のWGPは500ccクラスと250ccクラスのダブルタイトルを獲得した。しかも、今では体力的にとても考えられないことだが、フレディ・スペンサーという一人のライダーが2つのクラスのマシンを操り、2つのレースを制覇した。この記録はこれからも破られることはないだろう。

 スペインで開催された第2戦の500ccクラスでぶっちぎりの勝利を収めた後、本田さんから、菓子折りとともに手紙が送られてきた。封を開けると書かれていたのは、思いのほか「頑張ってくれ。期待しています」というねぎらいの言葉。今でも大切に保管してある。

nikkei.com(2012-08-29)