働きざま〜本田宗一郎さんから学んだこと
(福井威夫氏の経営者ブログ)

 ホンダの創業者である本田宗一郎さんがなくなられて20年が過ぎた。月日の流れとともに社内には本田さんと一緒に仕事をしたことがある人は減り、今や私ぐらいしかいなくなった。薫陶を受けた最後の世代として、この場を借りて、本田さんから学んだことをお伝えし、ホンダの中でどう息づいているのか、記したいと思う。

 出会いの場は1969年に入社した時の新人研修だった。私は学生時代、カーレースのチームに参加したほどの車好き。映画「グラン・プリ」に登場するF1のチームオーナーの自動車への熱い思いに共鳴し、そのモデルになったとされる本田さんの会社で働きたいと思っていた。念願かなって会うことができた本田さんの社長講話だったが、新入社員を前にしていたからか、堅苦しく、つまらなかったということしか記憶にない。

 だが、そんな姿は最初だけだった。希望通り配属された埼玉県和光市の本田技術研究所に出社すると、どこからか怒鳴り声が聞こえてくる。本田さんは当時本社があった東京・八重洲にはほとんど行かず、毎日のように研究所に顔を出しては、あちらこちらで声を張り上げていた。

 私の上司もよく怒られていた。聞いてみると、本田さんは技術開発に関するアイデアを次から次へと持ってきては「ちょっとやってみてくれ」と指示していた。上司が「できませんでした」と報告すると、とたんに顔を真っ赤にして怒っていたのだ。本田さんが怒る時はどこでも同じようなやりとりが繰り広げられていた。幸い、新人だった私は所内ですれ違う時に「こんにちは」と挨拶をして「おす」と返事が返ってくるぐらいのやりとりで済んでいた。

 そんな私についに本田さんから宿題が課される時が来た。

 1970年、米国で大気汚染防止のため排ガスを規制する「マスキー法」が制定され、窒素酸化物(NOx)などの排出量に規制が設けられた。達成は不可能とさえ言われたほどの厳しい規制値だったが、クリアしなければ米国で自動車を販売できない。世界中の自動車メーカーが我先にと技術開発を競っていた。後にホンダが低公害・低燃費の「CVCCエンジン」を開発して、世界で初めてマスキー法をクリアするのだが、当時、研究所にとっても最大の研究テーマだった。

 「社長がNOxを化学反応で処理できないかと言っている。やってみてくれないか。明日、社長が来るから」

 入社してしばらくたったある日の昼、上司からこんな指示があった。私は大学時代に化学を専攻し、排ガスの分析や制御を研究した。面白いアイデアだと思ったが、与えられた時間はわずか1日。とにかく、できうる限りの実験や部材の試作を徹夜でこなしたが、どうしても実用に耐える代物にはならない。翌日、来所した本田さんにおそるおそる報告した。

 「化学反応で処理することは可能ですが、設備の大きさを計算すると自動車に積めるものにはなりません」

 「あ、そう」

 返ってきたのは一言だけだった。私のくたびれた身なりと疲れ果てた顔を見て、できることはやり尽くしたのだろうと思ってくれたに違いない。以来、その研究テーマを持ち出すことはなかった。

 本田さんが見ていたのは、物事を見極めるのに本当に努力しているかどうかだったのだと思う。こっそり手を抜いたり、安易に他人を頼ったりすると、たちまち見抜き、雷を落とした。自らの手で調べ、自らの言葉として話す。こうして本田さんから仕事への向き合い方を学んでいった。

nikkei.com(2012-08-01)