まもなく離陸、新しい交通システム
「ホンダジェット」の全貌(1)

 ホンダが20年以上の歳月を費やして開発した小型ビジネスジェット機「HondaJet(ホンダジェット)」が、顧客への引き渡しに向けてカウントダウンに入った。2012年内に量産を始め、翌2013年後半には供給を開始する。本連載では、競争力の裏づけとなる斬新な技術を搭載した機体、その技術を開発したR&Dセンター、機体として生産する量産工場など、HondaJetの全貌をさまざまな角度から解説する。

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 「HondaJetは、客室(キャビン)内の広さ、燃費の良さ、飛行可能な速度のすべてで既存の小型ビジネスジェット機に勝っている」。米Honda Aircraft社の社長兼CEO(最高経営責任者)の藤野道格氏は、HondaJetの競争力の高さについて自信を見せる(図1)。

 例えば、キャビンの広さ。従来の小型ビジネスジェット機では、向かい合って座った乗客の足元のスペースが非常に狭く窮屈に感じる。これに対しHondaJetでは、乗客同士の足がぶつかることなくゆったりと座れる(図2)。燃費については、従来の同級機クラスのビジネスジェット機よりも約20%向上させた[注1]。
 [注1] 機体の価格は450万米ドルである。

 図2 HondaJetのレイアウト例  胴体にエンジンを取り付ける必要がなくなったため、胴体を貫く構造部材などが不要になり、客室(キャビン)や荷室のスペースが広がった。上の図は、乗員2人、乗客5人の場合のレイアウト例。向かい合う座席の足元のスペースも広い。

 このHondaJetは、新しい交通システムというコンセプトの下に開発された。例えば広大な米国では、小都市間の移動に空路を使うことが多い。しかし、必ずといっていいほどハブ空港を経由する路線になっているので、乗り継ぎなど時間のロスが発生する。従って、空路による出張だと2日仕事になるのが当たり前だった。ところがもし小都市から小都市へと直接飛べたら、2日仕事が1日仕事に短縮される。藤野氏は、こうした交通システムを実現すれば、多くの利用客が望めると考えたのである。

 とはいえ、乗り心地が悪く利用料金が高ければ客は離れ、せっかくの交通システムも絵に描いた餅に終わってしまう。そこでHondaJetの開発では、キャビンの広さも利用料金に直結する燃費も、「米国における国内線のファーストクラス」(同氏)を基準とした。

 現状のビジネスジェット1機の利用料金は、小型機でも1時間当たり2000米ドルに近い。これを1000〜1500米ドル程度に安くできれば、例えば4人で利用した場合には1人当たりの料金が250〜375米ドルと、米国内のファーストクラス並みになる。併せて、ファーストクラス並みの乗り心地を確保できれば、これまで高根の花だった小型ビジネスジェット機の利用客が大幅に増えると読んだのである。

 しかし、キャビンを広くして乗り心地を高めることと燃費を良くすることは、設計要件としては相反する。このトレードオフをいかに解決したのか――。本連載の今回は「スペース」、そして次回には「抵抗」「軽量化」と、3つの角度からHondaJetに採用された斬新な技術をみていこう。

■エンジンを翼上に配置、スペースをつくる

 HondaJetにおける外見上の最大の特徴は、主翼の上にエンジンを配置したことだ。通常のビジネスジェット機は、胴体後部の左右にエンジンを置いている。その場合、エンジンを吊(つ)るために胴体を貫通するような構造部材が必要になり、胴体の内部にデッドスペース、つまりキャビンや荷室として利用できないスペースが生まれてしまう。

 これに対しエンジンを主翼上に配置すれば、胴体を貫く構造部材は必要なくデッドスペースは生じない。ところが、だ。エンジンを主翼の上に配置する設計はタブーとされてきた。エンジン(厳密には、エンジンを覆うナセル)と主翼の間に非常に大きな空力的な干渉抵抗が発生するからだ(主翼周りの空気の流れをエンジンが乱し、その逆も起こしてしまう)。

 HondaJetの開発では、理論的には「エンジンの配置の仕方次第で抵抗を抑えられるはず」(藤野氏)と、あえてこのタブーに挑んだ。その際、特に問題となったのが、高速飛行時に発生する「造波抵抗」だった。

 飛行速度が高まり、翼表面の流れのマッハ数[注2]が1付近(音速)に達すると、大気の圧縮により衝撃波が形成される。これによる抵抗が造波抵抗で、マッハ数が上がるにつれて急に増える。実際、抵抗の目安となる抗力係数(CD、正確にはDは下付き文字)が、機体のマッハ数0.8前後で急激に上昇していくのは、この造波抵抗のためだ(図3)。従って設計では、造波抵抗をいかに小さくするか、造波抵抗が発散する(急激に上昇し始める)マッハ数をいかに高めるか、の2点が高速での飛行効率を上げるポイントとなる。
 [注2] マッハ数は、流体の相対速度と音速の比を指す。

 マッハ数が0.8に近づくと急激に抗力係数が上がっていく。ビジネスジェット機で一般的な胴体後部配置(6)と翼上配置を比較した場合、翼上配置の前方(2)や中間(3)のときはグラフの全ての領域で抗力係数が大きくなるが、HondaJetで採用した後方位置(4、5)では全ての領域で胴体後部配置よりも抗力係数が小さい。  改めて、図3を見てほしい。エンジンの配置の仕方(前後方向の位置)を変えることによって、マッハ数と抗力係数の関係が変わる。翼上配置した場合には、抗力係数は翼単体と比べて総じて高くなるが、ある位置で小さくなることが分かった。それは、エンジンナセル先端部の前後位置が翼上面に発生する衝撃波付近に配置された場合だ(図中のグラフの4と5)。そこから少し前にずれるだけで、抗力係数はたちまち大きくなってしまう(同3)。そんな微妙なポイントにおける抗力係数は、従来のビジネスジェット機で主流の、胴体後部にエンジンを配置した場合よりも小さかった(同6)。

 もちろん、エンジンの搭載位置はそれだけで決まるものではない。主翼からの高さや胴体からの距離など「膨大なパラメータを変化させながら、最適な位置を追い込んでいった」(同氏)。図1の写真に示した最終的な搭載位置は、数cmのレベルで調整された、まさにスイートスポットなのである(図4)。

■翼上配置が振動特性に影響

 実用化に当たっては、エンジンの搭載位置の最適化による抵抗の低減だけではなく、操縦安定性や振動特性などへの配慮も欠かせない。その1つが、フラッター現象、すなわち主翼の弾性変形と空気の流れから受ける力による共振現象の抑制である。

 当然のことながら、主翼にそれとほぼ同じ質量のエンジンを取り付ければ、主翼の振動特性は大きく変わる。一般のジェット機でエンジンを「主翼の下面前方」に搭載した場合、エンジンの質量はフラッター現象を抑える働きを持つ。「エンジン質量が主翼の弾性軸前方に位置するためバランス効果を発揮する」(藤野氏)からだ。

 これに対して、HondaJetでは一般のジェット機とは逆の「主翼の上面後方」にエンジンを配置する。つまり、エンジンの質量が主翼の弾性軸後方に位置することになり、一般的にはフラッター現象を悪化させる(増幅する)傾向がある。

 このため、HondaJetでは空力弾性特性の設計に対しても詳細な研究を行い、主翼のノードライン(節)付近にエンジンを配置することでフラッター現象を悪化させることなく、造波抵抗を最小化することに成功。さらに、エンジンの支柱となるパイロンの振動モードと主翼の振動モードの関係を最適化することでフラッター現象に対する振動特性を改善した。

 こうして翼上配置を実現するまでには、膨大な数の理論計算(シミュレーション)や風洞実験を繰り返した(図5)。特に、風洞実験では、機体のモデルを保持する方法が実験結果に影響を及ぼすため、「実機による実験結果との相関を取ることが大切なノウハウとなった」(藤野氏)という。その相関に基づいて、風洞実験の結果を補正するのだ。 

nikkei.com(2012-05-09)