特別リポート:北米で減速のホンダ、反逆児たちの闘い

[東京/デトロイト ロイター] ホンダの未来は、埼玉県和光市で働く2人の反逆児にかかっているのかもしれない。「とにかく突き返せ」──それが2人への指令だ。

 和光市の本田技術研究所四輪R&Dセンター。デザイン開発室クリエイティブ・ダイレクターの朝日嘉徳(47)、南俊叙(44)両氏は、進行中のプロジェクトに目を光らせ、月並みなクルマの開発に待ったをかける。要は、ホンダらしくないと酷評された2012年型「シビック」のようなクルマはすぐに止めろという指令だ。

 ホンダは既成概念を打ち破る創業者の気概を忘れ、会議室でクルマをつくるようになってしまったのか──。そんな周囲の声に、日米のホンダ社内では危機感が募っている。ホンダはつまらない会社になってしまったのか。

 「なかなか自由に表現できなくなってきている。デザイナーの中には『ホンダの商品でどれがほしい?』と聞くとクエスチョンマークが出る人たちもいる」

 朝日氏の告白は衝撃的だ。1970年代、低燃費・低価格の初代シビックでビッグスリーの隙をつき、品質と耐久性で長年にわたって高い評価を得てきたホンダ。同社が開発した低公害エンジン「CVCC」は大反響を巻き起こし、シビックの名は燦然と輝いた。あれから40年、ホンダは6速トランスミッションや直噴システムなど、新技術の開発で他社のリードを許すようになった。

 このところは、クルマの装備を削って利益率を上げる「そろばん勘定」が幅を利かせ、町工場を世界のホンダに導いた「クルマ好き」の技術者の影が薄くなっていた──社内の事情を知る関係者はそう解説する。

 コスト圧縮で利益率を上げても、墓穴を掘ることになりかねない。コストを下げた車を出せば、ブランドに傷がつく恐れがある。GM、フォード、クライスラーの3社が2008年の経営危機に陥る過程で身をもって学んだ教訓だ。

 皮肉なことに、ホンダはビッグスリーが小型車の開発を疎かにしたからこそ、1970─80年代に市場を切り拓くことができた。業界関係者は、ホンダが創業者・本田宗一郎氏のハングリー精神を取り戻せるのか、見守っている。

 散々な1年を終えたホンダのカムバックには時間がかかるかもしれない。昨年は東日本大震災からの復旧が遅れ、米国での販売が7%減少した。対する日産の販売は14%増加、市場シェアでホンダに迫る勢いをみせている。

 特に日産は、米国でホンダの追撃を目指しており、2010年以降、両社の差は縮まっている。 一方でコストパフォーマンスの面では、日本車に代わって、韓国の現代・起亜車が業界の「ベンチマーク」(目標・模範)となっている。日本勢が厳しい円高に苦しむ中、両社はウォン安を武器に高価な燃料節約システムなど追加装備の搭載を進めている。

 「ホンダは『技術のホンダ』とは見事にかけ離れた存在になってしまった」。コンサルティング会社オートトレンド・コンサルティングのジョセフ・フィリピ社長は、ホンダが新車の開発で復活をアピールできるようになるには3年程度かかるのではないかと予想する。

 もっとも、業績の回復はそれより早いかもしれない。ホンダは来年度の詳細な業績予想を公表していないが、複数の幹部は今年の米国販売が最大25%増加するとの見通しを示している。

 業績は引き続き磐石な金融事業と業界トップの二輪事業に支えられている。北米への生産シフトも進め、一段の利益率向上を図る方針だ。

 さらに先月には、北米ホンダ社長の岩村哲夫ホンダ専務を副社長に昇格させる人事を発表。海外駐在のナンバー2は初めてで、北米重視の姿勢を印象づけた。

 こうした中、現場レベルでは、ホンダの意地をかけた技術者の闘いが繰り広げられている。

 デザインスタジオが広がる本田技術研究所四輪R&Dセンター。朝日、南両クリエイティブ・ダイレクターは昨年9月の昇格以降、この和光の研究所を足場に社内の活性化に取り組んでいる。2人は90年代初めから、4代目「アコード」や「プレリュード」、ヨーロッパ仕様の「シビック」などの開発を担当。なかでもアコードはシンプルなデザインと耐久性に優れた4気筒エンジンは高い評価を得た。

 「南君は人に指示されて仕事をするのが大嫌い、僕と同じで」(朝日氏)。

 南氏は、協調性を重んじる日本の企業文化に馴染んだデザイナーの意識改革が課題だと話す。「とにかく現場主体で、現場の言うことを聞いてもらおうとしている。(そのためには)優しい顔ばかりしていては競争に負ける」

推奨リストから外れる

 「優しい顔」の弊害はすでに現われている。

 米消費者情報誌コンシューマー・リポートは昨年夏、2012年型シビックについて、内装の質が低く乗り心地も悪いと酷評。推奨リストから外し、小型セダン部門12車種中11位の評価をつけた。シビックが推奨リストから外れたのは93年の同誌創刊以来初めて。先月発表の同誌年次リポートでも、ホンダは長らく守ってきた品質ランキング首位の座を明け渡した。

 「ホンダはまるで『市場は押さえている。内装は安いものにして、エンジンも最新式でなくていいだろう』と言っているかのようだ」。コンシューマー・リポート自動車試験センターのデービッド・チャンピオン・シニアディレクターはそう指摘する。

 ホンダも過ちを犯したことに気づいている。

 本田技術研究所の山本芳春社長(ホンダ取締役常務執行役員)は「もっとアグレッシブにやらなければいけなかったという反省もある。シビックはわが社の根幹の1つで非常に大きい。ああいう評価を頂いてしまったというのは、やはり結果として反省しないといけない」と語る。

 米国ホンダの販売統括ジョン・メンデル氏は、推奨リストから外れた影響は最小限に抑えられているとし、シビックの1─2月の米国販売が45%増加したことを明らかにした。

 しかし、自動車市場調査会社トゥルーカー・ドット・コムによると、2012年型シビックのインセンティブ(販売奨励金)は1台当たり約1900ドルと、昨年4月の発売以降5倍以上に膨らんでおり、実質的な値引き販売がシビックの原動力になっていることをうかがわせる。

 メンデル氏は、ホンダがシビックの内装コストを削減したことを認めている。開発を進めていた2008年当時、米国経済は急速に悪化しており、安価なスモールカーが売れると判断したという。これに対し、現代自、フォード、GMなどのライバル各社は、消費者がスモールカーに豪華な内装を求めていることをつかみ、追加料金を払っても、高級カーオーディオやカーナビ、シートヒーターなどの特別装備を購入すると予想した。 メンデル氏は「トレンドを見誤った。われわれと市場の方向性が少しずれていた。顧客があまり気にしないと思って開発を進めた面もある」と振り返る。

 シビックは年内の改良を急いでいる。ホンダの未来と歴史はシビック抜きに語れない。イメージを守るため、事実上「化粧直し」を迫られた格好だ。

 1972年発売のシビックはホンダの名を一躍世界に広めたことで知られている。当時の基本価格は現在の物価水準で約1万2000ドル。実用性をアピールし、第1次石油危機後は、低燃費の小型車を求める米国人の間で大ヒットした。

 現在もホンダの年間世界販売300万台強のうち5台に1台はシビックだ。

 テキサス州とルイジアナ州でホンダ販売店を営むマイク・ショー氏は「ホンダの間違いはクルマの中身を抜き取ってしまったことだ。そろばん勘定が前面に出ていたのだろう。ようやく流れが変わったようだ。よい兆候だ」と語る。

 米国のシビックファンは多く、累計販売は900万台。アナリストや社内の関係者によると、ホンダはそうしたファンにまた乗り換えてもらえるようなデザインにこだわっている。

「雷オヤジ」を惜しむ

 ホンダは「本田技研工業」という正式社名が示すように、常に技術の会社を自任してきた。歴代社長は全員技術者だ。

 ホンダには、ありきたりなモデルチェンジを防ぐため、同じ技術者に同一モデルの開発責任者を二度務めさせないというしきたりがある。開発責任者に先代モデルと「競争」させることが狙いだ。

 南氏はこの制度について「形はあったけど文化として期待を超えるところに行ってなかったのかなと思う。僕は宗一郎さんに殴られた人に怒られていただけ。たぶん今の経営者も含めて本田宗一郎さんを知らない代に入っている。本当に純粋に新しいジェネレーション」と語る。

 かつて、ホンダの技術者は、宗一郎氏がいつ姿を見せるか、怯えながら暮らしていた。独創性のない仕事を見ると辺りかまわず怒鳴り散らすのが常で、周囲から「雷オヤジ」と呼ばれていた。

 そんな宗一郎氏は1983年に引退、91年にこの世を去った。創業者のチャレンジ精神があれば、ホンダは大きく飛躍できると話す業界関係者は少なくない。

 元GM副会長で業界切っての「カー・ガイ」として知られるボブ・ラッツ氏は「宗一郎氏はそろばん勘定とは全く無縁の人だった。自動車界のスティーブ・ジョブズだ」と振り返る。「常に技術の進歩を目指し『金の話はするな』と言う人だった」

 ラッツ氏はホンダの技術者が創業者の声を忘れてしまったのではないかと考えている。「忘れていないなら、もっと良い技術、もっと良いスタイリングになっていたはずだ。忘れてしまったとしか思えない」

衝立の裏で

 ホンダは、そうした見方を覆そうと必死だ。

 本田技術研究所の山本社長は、他の部門のことはあまり気にせず「もっと自由にやれ」とデザイン部隊に発破をかける。

 以前のホンダでは、当初のプランから外れた設計をするのに許可を取る必要はなかった。すでに決まったプランに不満がある場合は、有志が集まって「衝立(ついたて)の裏」で別のモデルを設計。上司も創業者の情熱を受け継いでいると感じて、黙認することが多かった。

 朝日氏は、そうした「衝立の裏」の力を身を持って知っている。90年代初め、オープンスポーツカーの開発を夢見た同氏は、当時内装担当だったにもかかわらず、勤務時間外に図面を引いた。仲間のデザイナーと慌しく製作したクレイモデル(粘土模型)は99年発売のオープンスポーツカー「S2000」の原型となった。

 「本当にやりたいと思っていることが、実際にいくつか実現されている。これからのホンダは、裏でこんなことをやりたいと思っている人間を引き上げて、世に先駆けて企画をしてクルマをつくっていきたい」

 朝日、南両氏の提案は、本社の伊東孝紳社長が承認すれば通る。意思決定の遅さに業を煮やした伊東社長は、四輪事業本部長を昨年4月から一時的に兼務。四輪事業を高級車「アキュラ」、中型車、軽・小型車の3部門に分け、各部門のトップに技術者を置いた。

 アナリストは、年内に予定されるアコードのフルモデルチェンジが、これからのホンダを占う最初の試金石になるとみている。アコードは米国で最も売れているホンダ車だ。走りやすさ、スマートな設計、低燃費には定評がある。

 コンサルティング会社グラント・ソーントンの自動車産業担当ラーズ・リューデマン氏は「大ヒットを飛ばす必要がある。(アコードは)ホンダの屋台骨であり、非常に利益率の高いクルマだ」と指摘する。

 新型アコードは、2015年までにクラストップレベルの燃費性能を目指す次世代エンジン・トランスミッション技術を採用する予定だ。アコードが新型エンジンを搭載するのは10年ぶりとなる。

 ホンダの失速にライバルはほくそ笑んでいる。

 震災やタイ洪水の影響でホンダの米国在庫が不足した昨年8月、日産の米国法人は、困り果てたホンダ販売店の前を日産車を満載したカーキャリアが通り過ぎるというCMを流した。

 朝日、南の両氏には重圧がのしかかる。次のクルマで確実に消費者の心をつかまなければならない。

 「普通の場合では開発が動いているものを止めてデザインを直してもらっている。あいつら何様なんだと思われながら、空気がなくなるぐらい胃の痛い思いをしながら、それでもやった。でも、それが仕事だと思っている」南氏はそう語った。 (By Chang-Ran Kim and Ben Klayman;Additional reporting by Bernie Woodall in Detroit; Editing by Martin Howell and Mark Bendeich; 日本語版翻訳編集 深滝壱哉)

jp.reuters.com(2012-03-22)