技術書の出版エピソード

 私は定年退職後も含めて長年熱処理技術とその関連の仕事をしてきました。

 70歳を過ぎた頃から、そろそろ仕事も潮時と考え始めましたが、そもそも私は仕事人間で、熱処理技術は私の生き甲斐であり、ゴルフ、囲碁などの趣味もありますがいずれも実力はアベレージ以下で趣味での達成感は得られませんでした。熱処理の仕事から離れる事を寂しく思い始めた頃、妻から、「あなたは何時も熱処理では俺が世界一だと自慢していけど、それなら一冊の本にでもまとめてみたら」と言われ、自分の足跡を残すことも出来るし、多少とも世のためになるのではと、一念発起した次第です。

 技術書を出版するなど、考えもせずに仕事をしてきましたので、原稿を書くのは大変な事だと思いましたが、それにも増して市販本とするには困難なことが多く、一時は自費出版にしようかと考えたこともあります。しかし、ここで諦めてはホンダイズムがすたるとの思いが強くなり、チャレンジした結果、市販本として出版まで漕ぎつけ、自分的には達成感を得ています。

本の紹介 「はじめに」の部分を転載

 1963年に筆者は学業を終えて就職しましたが、新入社員として配属された職場は熱処理工場でした。工場には入社する2年ほど前に設置されたガス浸炭炉があり、その頃、日本では液体浸炭からガス浸炭への切り替えが始まっていました。ガス浸炭炉とその技術は米国から輸入されたものでしたが、時を経ずして国産化され、設備の形態もバッチ型に加え連続型へと展開し、雰囲気ガスの測定も露点計による水分(H2O)の測定から赤外線による二酸化炭素(CO2)の測定を経て、現在ではジルコニアセンサーによる酸素(O2)の測定が一般的になっています。近年、CO2の削減と品質の向上を目標に真空浸炭の普及が進み、浸炭技術の新たな時代を迎えています。

 1975年頃、ガス浸炭の処理条件を計算で決めることができないものかとチャレンジしたことがあります。GMのF.E.HARRISの浸炭拡散理論(Metal Progress. April,1944)が広く知られていて、その理論にガスの反応速度論が加われば何とかなるのではないかと考えていました。しかしながら、反応速度論を適合させることが出来ず、しばらくして諦めの心境に至り、その後そのことを忘れていました。

 2000年、会社の定年退職を契機に、15年間ほど遠ざかっていた熱処理に関係する仕事に再び従事することになり、昔のことを思い出しながら浸炭に関する技術情報の収集を始めました。この頃すでに真空浸炭の普及が始まり、真空浸炭に関する論文も多く発表されていましたので、それらの技術論文を読み、ハタと気づいたことがあります。浸炭の化学的メカニズムはガスの平衡理論やそれに基づく炭素の活性度では説明がつかないのではないか、昔、ガス浸炭の処理条件を計算で求めることが出来なかったのは、旧来のガス浸炭理論にこだわり過ぎた為ではなかったかと思いました。ジルコニアのO2センサーによるガス雰囲気制御が、旧来の赤外線によるCO2測定に比べて、ガス浸炭の制御性が格段に向上していること、真空浸炭による高濃度浸炭の状況から、浸炭という現象の支配因子は金属とガスの吸着ではないだろうか、ということを思いつきました。その後、金属とガスの吸着現象と触媒反応を調査し、現実に起きている浸炭の状況を考え合わせていくうちに、浸炭の化学的反応の律速過程は金属とガスの吸着現象に違いないと確信しました。

 本書の内容は半世紀以上にわたって多くの技術者が浸炭反応の基本原理としているガスの平衡理論および炭素の活性度という理論とは全く異なるものになりました。本書ではガス浸炭と真空浸炭はいずれもガスの吸着現象を浸炭の基本原理として説明しています。浸炭の基本的な化学的メカニズムが吸着現象であるかどうかは読者の皆さんの判断にお任せするとして、本書を出版しようと思い立った理由は、浸炭焼入れの条件設定を過去の経験に基づくデータから導くのではなく、経験がない人でも簡単に計算で求めることができれば、浸炭焼入れの業務はより簡単になり、生産性と品質の向上に役立つと考えたからです。浸炭焼入れ条件の決定は経験豊かな技術者が過去のデータを参考にして、自己の経験的ノウハウを加味して決定している場合が多いと思いますが、経験の浅い技術者にとってこの領域に参画するのは難しいことです。浸炭焼入れの条件設定方法を体系的にマニュアル化すれば、トライアンドエラーによる試作を繰り返すことなく、未経験な技術者でも効率的に量産条件を決定することができるでしょう。

 往々にして浸炭焼入れの条件を技術的なノウハウ、過去の経験から得られる知的財産と考えがちですが、特に東南アジアにおける熱処理専業企業においてその傾向を強く感じます。競争力のある技術やノウハウであれば良いのですが、井の中の蛙的なノウハウであってはならないと考えています。浸炭焼入れの条件に関するノウハウはその条件を決める方法がノウハウであって、決められた条件そのものはどこにでもある処理条件に過ぎないでしょう。むしろ積極的に処理条件を公開し、世の中の評価を得るほうが自社技術の向上に役立つと考えるべきです。

 本書出版のもう一つの理由は、計算ソフトの根拠となっている経験的な知見を理解していただき、読者の皆さんの技術向上に少しでも寄与でき、特に熱処理業務に従事して日の浅い若い技術者たちが浸炭の本質を理解するために役立てば幸いと考えたからです。さらに本書が化学の原点に立ち返って、浸炭プロセスの原理原則を再検討する一石になることを望んでいます。本書ではガス浸炭と真空浸炭の処理条件を計算で求める方法と計算式を導き出した根拠を詳細に記載し、計算ソフトを付録のCD-ROMに収めてあります。計算式に用いた基本的な数値は(株)日本テクノ製のバッチ型滴注式ガス浸炭炉およびバッチ型ガスパルス真空浸炭炉の操業実体験から導いています。従って、設備メーカー、炉の仕様、性能、基本的なプロセスなどによって、計算式は多少異なるでしょう。しかし、計算式を求める方法と手順は、本書を参考にすれば充分役に立つと考えています。本書の計算ソフトの初期的なものは10年ほど前から一部の会社で使用され、計算と実際がよく一致するとの評価を得ています。本書の計算ソフトを使用して決定した処理条件で試作を行った場合、一般的な浸炭焼入れの品質規格をほぼ満足します。生産性と品質を考慮して条件をリファインすれば効率的に目標に合致した量産条件を決定することができるでしょう。

 本書の構成は、第一章に現状のガス浸炭理論の基礎となっている論文とそれに基づく従来の操業条件の設定方法を記載し、第2章には本書出版の主目的である浸炭条件を計算で求める方法の模索過程で、金属とガスの吸着現象に着目した結果、浸炭の化学的メカニズムの新たな概念が生れ、その内容を詳細に記載しました。第3章と第4章は、ガス浸炭および真空浸炭の操業条件を計算で求める方法の紹介。第5章は主に計算ソフトに反映されている技術的な内容と関連する事項を記載。第6章は本計算ソフトの活用例として、各種因子の浸炭条件に与える影響を解析。さらに、第7章では浸炭の新概念に基づいて生れた浸炭法のアイディアを紹介しています。第8章以降は本書出版の主目的と直接的な関係はありませんが、第8章に浸炭と同類の技術分野である浸窒焼入れと浸窒時効を紹介し、第9章に熱処理技術者にとって永遠のテーマである熱処理歪の低減につて、第10章に基本技術である浸炭窒化について記載しています。

記:渡辺 輝興(2013-10-27)