43年ぶりの百名山
(旭岳,羅臼岳,利尻山)

 定年が間近になってから本格的に始めた「百名山」も無事に100を達成することができたが、その中の3つはたまたま学生時代に登っていた。ちょうど、深田久弥が「日本100名山」を発表した頃のことであった。

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 1964年、大学3年生の夏休みに学生時代の思い出にと当時流行った北海道キャンプ旅行をした。 重いキスリングにテントやシュラフそれになべ、釜を詰め込んで移動した「カニ族」であった。

 最果ての地を巡り、これに登山を加えてコース設定をした。それまでに特別に経験をしたわけでもなかったが、若さ故の特権であろう、大雪を縦走し、知床は羅臼を越え、利尻富士にも登ることができた。

 その後、本格的な登山をすることはなかったが、まわりの仲間に勧められ、「百名山」に挑戦することになったのは定年が間近になってからである。

 何とか定年までにと目標を定め、バイク・車・飛行機・レンタカーと機動力を駆使した登山が始まった。その中で槍・剣・穂高・白馬などアルプスの山々が印象に残っている。

 100名山に結果的に40年程かかったが、そのフィニッシュは岩手「早池峰山」であった。



 田中澄江が「ハヤチネウスユキソウ」をもって選んだ「花の百名山」でもある。「東洋のエーデルワイス」といわれるように、肉の厚い花弁がそのまま立派なブローチになる逸品である。

 最近はゆとりをもってと「花の百名山」「岩崎百名山」「歴史の山々」を巡っている。

 それぞれにテーマをもっており、何より手軽に登れることもあって、日頃のトレーニングにはもってこいである。

 深田久弥はすべての山に人格を与え、これと対話した。田中澄江の花紀行も素晴らしいし、岩崎元郎さん(かつて、EG金型部門に勤務していた!)の中高年に対する心配りにも共感できる。

 歴史の山では幕末の志士、坂本竜馬が韋駄天走りに駆け抜けたという大楠山(三浦半島)や豊臣秀吉が築いた一夜城のひとつ石垣山(小田原)を歩きながら、当時の思いに浸ることもできた。みかん畑を縫った登山道から眺めた太平洋にみかんの花咲く丘の風情も楽しむことができた。

 これらに加えて、40数年前に登った北海道の3つの山にも再び登りたいという想いが募るようになった。

 北海道には9つの「百名山」がある。たまたま、学生時代に3つに登っていたので、残りは6つ、その1つの後方羊蹄山(しりべしやま)には2001年9月に、残り5つの十勝岳、トムラウシ山、雌阿寒岳、斜里岳、幌尻岳に2002年7月に登っている。

 この中の幌尻山は恐らく百名山の中の最難関のひとつであろう。登山口までかなりの林道を走らなければならないことに加え、そこから幌尻山荘に向かって額平川沿いに登るが、川には橋がかかってなく、両岸をあっちへ行ったり、こっちに戻ったりの渡渉が10数回もある。大雨の後では水かさが増して、胸までつかることも珍しくない。5年前に訪れた時は案の定、増水しており、風邪気味だったこともあって、急遽日程を変更した。

 十勝岳、トムラウシ山、雌阿寒岳、斜里岳に登って最後が幌尻岳であった。幸い水かさが減っており、10数回の渡渉も無事に済ませ、幌尻山荘に着いた時にザックのポケットが開いていることに気がついた。それまでに登った4つの山の記録はすべて額平川の藻屑と消えていた。

 気落ちしている間もなく、翌朝山頂に向かって出発した。この山には再び来れるか分からないので、たまたま一緒になった四国(香川)の宮武三郎さんに頂上での記念撮影をお願いした。その後ネガまで送っていただいた宮武さんはNTT・OBでこれが縁で今でもお付き合いをさせていただいている。この9月には仲間と上州・群馬の山に登る計画とか、5年ぶりにご一緒できるかもしれない。

 さて、待ちに待った出発の日7月21日がやってきた。大洗から苫小牧へ、前回(5年目)と同じフェリーである。到着まで19時間ほどかかる長旅だが意外とその時間が気にならない。13,500トンの大型船はほとんど揺れないし、大海原を眺めながらの入浴もまた格別であった。来るべき登山に備えて英気を養い、これまでの旅の疲れもしっかり洗い流すことができた。

 翌日午後札幌へ、ホテルサンルートで1泊後、翌朝旭岳温泉へ、雪の結晶で有名な中谷宇吉郎博士の研究は主にここで行われ当時を偲ぶ品々も残されている。博士は山に対する造詣も深く、因みに深田久弥は同郷(石川県)でしかも幼稚園、小学校、大学の後輩であることは興味深い。

 早速、ロープウエーで姿見の池まで一直線、旭岳はここからの往復だった。43年ぶりの再来に頂上では360度の展望がかなったが、残念ながら当時の記憶が甦ることはなかった。

 池の周りに咲く今が盛りの花たちを愛で、温泉に戻ってさらに時間があったので、これも40数年ぶりの天人峡「羽衣の滝」を訪れた。

 翌朝は少々の長旅、知床、岩尾別温泉までは350キロ、思ったより早く着いた木下小屋で管理人の竹田さんからいろいろなお話を伺うことができた。
 40数年前は羅臼温泉から峠越えをした羅臼岳だったが、今回は岩尾別からの往復コースであった。若かったとはいえ、重いキスリングを背負ってよくも登れたものである。這って登った記憶があるが、多分、屏風岩ではなかったかと思う。今ではほとんど軽いウエストバックひとつで山頂を往復している。前日に車で知床峠まで出かけた。かつて10時間ほどかかった峠越えは横断道路のお陰で30分ほどで通過してしまう。峠は立派な観光スポットになっており、多くの人で賑わっていた。

 当日は絶好の好天に恵まれ、羅臼平や山頂から北方四島を目の当たりに眺めることができた。かつて多くの日本人が住んでいたこれらの島々が日本に帰ってくる日は果たして来るのだろろうか。

 最後が利尻山である。羅臼・岩尾別から網走経由で稚内まで400キロ、これも中途半端な距離ではない。日本最北端の宗谷岬を経由したルートであった。

 車を稚内港において、利尻島行きのフェリーに乗った。翌朝、4時前に旅館を出発して登山口まで送ってもらった。往復10時間ほどのコースには途中に水場もなくウエストバックに詰めるだけ詰め込んで出かけた。

 風が強く砂交じりの細かい水滴(雲)が顔に当たって痛かったが、ほぼ予定通り5時間ほどで頂上に辿りつくことができた。山頂からの展望はきかなかったが、近くにあるローソク岩がたまに顔を出してくれたのと鎮座するお社の姿にかろうじて40数年前の記憶が甦ってくる思いだった。

 全国に数あるご当地富士の中でも利尻富士の美しさはトップであろう。特に礼文島から眺めた姿は島全体が将に富士山である。3つの頂を極めて、今回の目的は達成した。早々の退散はもったいない気もした。

 1日おきの3つと車での長距離移動もあって果たして登れるものか心配もあったが、長年の想いを成就することができた。

 1週間の山旅の中で、多くの方との出会いもあった。石狩(札幌)にお住まいの渥美法子さんは中学校(附中)の同級生、同期会の写真や名簿等をお送りしている内に不思議な文通も始まった。中学校の卒業以来であるから49年ぶりだった。さらにフェリーで隣り合わせの席になった宇津木克己さんはかつての仕事仲間の松原荘一さんと高校(足利)の同級生とか、お孫さん(小1)を連れて四季折々の山に登られている。旭岳温泉で同室となったお一人は秋田、新屋の方、もう一人も現在の勤務地(埼玉・本庄)にお住まいの方であった。
「木下小屋」の管理人の竹田さんは小生の入社とほぼ同じ頃(昭和41年)にホンダ鈴鹿工場で実習をされたとか、ただただ驚くばかりであった。

 最後に真打に登場願おう。「熊」であった。木下小屋に到着した24日の朝8時頃、裏手の露天風呂のすぐ近くに3歳位と思われる熊が出没したというのだ。さらに昼過ぎにも現れた。首に発振器が巻きつけられていたので、以前捕獲された熊だ。特に被害を与えることもなく、その場を立ち去ったが、すぐに連絡を受けたNPOの係員が携帯用のアンテナをもってきた。グルグル回しながら、数百メーターほど山に入ったところに潜んでいるとのこと。

 捕獲した時、特に小熊に対しては最大限脅して、人間は怖いものだから決して里に下りてきてはだめだよ、と言い聞かせて放つそうである。ただ、そうもいかないのは彼らの食糧事情によるもので、そのひとつが好物の蟻とか。熊のプーさんが蜂蜜をペロペロなめる姿はお馴染みだが、蟻とは以外であった。NPOの係員も蟻用の駆除剤をもってきていた。

 発振器は結構な大きさ、熊にとっても迷惑千万なことだろう。何とか今まで通り、お互いがうまく共存できる方策はないものだろうか。翌朝、羅臼の頂上に向けて木下小屋を後にしたが、なるほど登山道には昆虫の死骸に群がる蟻が随所に見られた。

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 ホンダを退職し、山下ゴムに勤務して4年が過ぎた。6月からは週3日位の勤務と思っていたが、結局もう1年ということになった。現役最後の有給休暇をいただいて、計画していた登山は予定通り実行した。

 往復のフェリーを含めて9日間の強行スケジュールであったが、来年からは毎日が日曜日、ゆとりを持ったスケジュールで記録を失った4つの山や大雪の縦走等に胸を膨らませている。

 愛車「フィット」は快調に走ってくれた。大洗までの往復と道内合せて1,960キロの走行となったが北海道の道路交通事情はすこぶる良く、20.6km/Lの燃費であった。

 何をするにも健康が大前提、幸い今のところ特に悪いところもなく過ごさせてもらっていることに感謝し、この先も健康に努めたいものである。

記:木田橋 義之(2007-08-31)