「ギリシャ神話」と「古事記」
(黄泉の国からの生還)

 「あの世」の存在は誰もが考えたことがある、人類最大の関心事のひとつだが、古の人たちにとってもそれは同じだった。そして、その黄泉の国(よみのくに)にまで行ってしまった人がいる。それも愛する亡き妻を取り戻すためにである。

 その人が今回の主人公、オルペウスである。オルペウスは竪琴の名手だった。彼の奏でる竪琴は誰もを感動させ、動物や木々までがその音色に聞きほれるかのようだった。そして彼には最愛の妻がいた。名をエウリュディケという。二人は誰もがうらやむ仲睦まじい夫婦だったが、その幸せな時間は長く続かなかった。

 ある日、エウリュディケは毒蛇にかまれて死んでしまう。オルペウスの悲しみは想像を絶するものだった。毎日、悲嘆に明け暮れた。そして、彼のとった行動は黄泉の国まで行って、妻を取り返してくるものだった。

 昔は黄泉の国に通じる洞窟があった。そこから彼は黄泉の国へと向かったのである。いくら神話の世界とはいえ、生きて黄泉の国まで行った人は珍しい。他には英雄ヘラクレスくらいのものである。彼の12の難業の中に、冥府の番犬ケルベロスを生け捕りにしてくるというものがあったが、オルペウスにはヘラクレスのような腕力はない。あるのは誰もが聞き入る竪琴の音だけであった。しかし、この竪琴の音は冥府にいる者にとっても例外ではなかった。

 まずは三途の川(さんずのかわ)の渡し守カロンは、金を取るのも忘れて彼を渡してやった。そして、その先のさまざまな難関もこの竪琴の音で切り抜け、とうとう番犬ケルベロス(ヘラクレスに捕らえられた後、あまりの醜さにまた戻されていた。)までも聞き入り、眠ってしまった。

 そして、ついに黄泉の国の王ハデスの前までやってきた。妻ペルセポネ(収穫の神デメテルの娘で、娘が黄泉の国に行っている一年の三分の一の間、その悲しみのために作物が実らなくなり、四季が生まれたといわれている。)とともにその竪琴の音色に感動していたハデスは、特別に妻エウリュディケを連れて帰ることを許した。

 ただし、条件を一つつけた。それは地上の世界に戻るまで決して振り返って、妻の姿を見てはならないと言うものだった。果たして彼は愛する妻の手を引いて来た道を戻るのだが、ご想像の通り、本当に手を引いているのが自分の愛する妻なのか気になってたまらないオルペウスはついに振り返って見てしまうのである。

 そこにいたのは悲しみの表情で消えていく、妻エウリュディケであった。もう二度とオルペウスは黄泉の国に戻ることを許されずに、その後は悲嘆に明け暮れて非業の最後を遂げる。おそらく、彼は今、黄泉の国で愛する妻とともにあるに違いない。夜空に残る琴座は、オルペウスの竪琴が天に上がったといわれている。

 さて、同じような話が日本にもある。それは「古事記」に出てくる、最初の神々「イザナギ、イザナミ」の話である。この二人の神々が交わって、私たちの日本が出来たといわれているが、妻イザナミが火の神を生んだときにその熱さのために命を落としてしまう。

 その後はほぼ同じ。悲しみにくれたイザナギが黄泉の世界まで行ってイザナミを取り戻してくる。そして振り返ってはいけないといわれながら、もう少しのところで振り返ってしまう。ここからがちょっと違う。振り返って見たものは黄泉の国に行って醜くなってしまったイザナミの姿だった。

 ギャッと言って逃げるイザナギを、見たわねーとものすごい形相でイザナミが追う。すんでのところで逃げ切ったイザナギはほっと一息ついて、川に浸かって身を清める。その時に左目から「アマテラス大神」と鼻から「スサノオの命」という有名な神様が生まれている。

 古事記は7〜8世紀くらいの成立なので、ギリシャ神話(BC8世紀くらい)よりずっと新しいが、同じような話が残っていることは面白い。その共通点の一つは、死後の世界は今言われているように天国や地獄と言った区別はなく、黄泉の世界というのはなにやら恐ろしげな気味の悪い場所だと言うことである。

 古代人は死後に希望を持たせずに、現実的に捉えていたのかも知れない。もしくは、黄泉の国とは本当にそういうところなのかもしれない。

記:木田橋 義之(2007-03-06)