師から弟子に

 江戸時代後半、明治維新の原動力となる若ものたちが各地で育った。各藩の公式学校とでもいうべき藩校や、吉田松陰の「松下村塾」、緒方洪庵の「適塾」などの私塾も各地で充実し、教育環境はバツグンに良かった。

 蘭医者の緒方洪庵が大坂でひらいた「適塾」には12箇条よりなる訓戒があり、その一条目が次のように、まことに厳しい。

 「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ」

 また、250通以上残っている洪庵の手紙の多くにも「道のため、人のため」と結ばれている。もともと医師を志す若者を集めていたので、このような訓戒が真っ先にきているのだが、後になって「適塾」の評判は日本を覆うようになり、西洋学を志す有為の人材が全国からのべ1,000人も集まるようになった。

 記録をみるだけでも、橋本左内、大村益次郎、箕作秋坪、大鳥圭介、福沢諭吉などなどそうそうたる人材が適塾で育っていった。「適塾」がなぜこれほどまでに人気を集めたか。人間・緒方洪庵の徳を慕ってのことと思うが、自由競争の魅力が若者を刺激したように思う。

 「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と福沢が言い続けたように、身分や家柄を大事にする江戸時代のシステムのなかにあって、「適塾」には身分などまったく関係なかった。自由な空気に溢れ、蘭学の実力だけが問われた。塾生たちは、喜びと感動をかみしめながら学問を楽しむように学んでいったことだろう。

 「適塾」の新人塾生は、まず8級からスタートする。最初は語学(オランダ語)を学ぶ。月に6回、「会読」と言って何人かが集まって蘭書を訳す。その出来不出来で学力を競い合い、等級がつけられる。一級が一番上だが、各級ごとに「会頭」が設けられ、塾生全部を代表して「塾頭」を設けていた。

 「適塾」は幸いにも現存する。大阪市中央区北浜三丁目に重要文化財として公開されてもいる。その後、発展的に解消して今日の「大阪大学」になっているのだ。

 「これ以上できないというほどに勉強もした。目が覚めれば本を読むという暮らしだから、まくらというものをしたことがない」と明治になって、福沢諭吉が語っている。

 入塾した年、諭吉はひどい腸チフスにかかって高熱にうなされた。命取りにもなりかねない症状だった。見かねた師の洪庵は、「俺はお前の病気をきっと診てやる」と多忙な合間をぬって、毎日診察に来てくれた。これは諭吉青年にとって終生の思い出となったことだろう。

 洪庵にとって「道のため、人のため」は単なるスローガンではない。生きた実践哲学なのだ。弟子の高熱を治すために真剣に診療する洪庵の姿をみながら、諭吉も「道のため、人のため」を学問の目的にしようと固く決心したに違いない。

 師から弟子へ、親から子へ、上司から部下へ、経営者から社員へ・・・。受け継がれていくべき精神とはこういうものではないだろうか。

記:木田橋 義之(2006-07-18)