あきらめの蔦

 春の「センバツ」が始まる。話題の「駒大苫小牧」は早々と姿を消し、夏・春連覇の夢は幻になってしまった。沖縄からは日本最南端の高校・石垣島の八重山商工が選ばれ、地元も沸き返っているようだ。この二校に象徴されるように、最近は北と南に強い学校がいる。北と南が弱かった昔とは、隔世の感がある。
 又、指導者の影響が大変大きな高校野球である。これまでに名物監督がたくさんいたが、その中でも徳島県・池田高校の蔦(つた)監督が印象深いと思う。

 蔦さんは、昭和27年に池田高校の野球部監督に就任した。以来、まったく無名の同校を、四国大会の常連校にするまでに10年を要している。しかもそこから悲願の甲子園初出場までには、もう10年の歳月を必要としている。いつもあと一歩、ここ一番というところで負けてしまう“生みの苦しみ”をいやというほど味わっているのだ。

 後にライバルチームから “攻めダルマ” と畏れられる蔦監督も、50才台までは“あきらめの蔦”と自ら認めるほど、勝利の執念に乏しい監督だったようだ。「私のようなお人好しタイプが大事な試合で勝てないのは当たり前だ。選手がミスを犯すのも、この性格が乗り移るからだ。甲子園まであと一歩と迫っても、この性格が運命を呼んでしまう。結局、負けるのは私の宿命なのだ。気の小さいワシが監督をしている限り、絶対に池田高校は甲子園に出場できない」と蔦監督は思いこんでいた。(『攻めダルマの教育論 蔦流・若者の鍛え方』ごま書房)

 実は当時、池田高校野球部は、存続か廃部かの瀬戸際に追い詰められていた。池田高校から商業科がなくなり、普通科一本になったからだ。野球部生徒は、商業科が多かったため、野球部の存続はむずかしくなる。そのラストチャンスともいえる年に奇跡は起きる。

 南四国大会決勝、徳島商戦。池田高校は初回いきなり0-3とリードされた。そのまま試合は進んでいく。「またかと嫌な予感が胸をよぎった。そして「あー、もう負けた。もうあかん。」とベンチで私がつぶやいた。生来のあきらめの早さが出たのだ。なんといっても、『あきらめの蔦』と呼ばれる男である。 そのときである、横にいた元木部長が怒鳴った。『イカン!蔦はん。勝負事は最後まであきらめたらイカン』『アホいうな。3対0で負けておるのに、どうして勝てるんじゃ。アカン、アカン。もう帰り支度じゃ』 私はすっかり試合を投げてしまっていた。そうこうしているうち、ヒットエンドランが決まり、4番の峰川に中前タイムリーが出て2点入った。3対2だ。元木先生は、『みてみなはれ。ワシのいうとおりじゃ。こりゃいけまっせ。』4-4のまま延長へ。そして10回裏、サヨナラ勝ち。」

 「性格というのは恐ろしい。強気でしっかりしている男は、他人にまで幸運をもたらす。私のように弱気な男は、逆に臆病が選手に伝わり、揚げ句の果てに、負けを呼び込んでしまう。」蔦監督はこの日以来、自分の性格と向き合い、弱さを克服しようと性格改造に乗り出す。

 「あきらめの蔦」が「攻めダルマ」に変身したのもちょっとした「きっかけ」からだった。自らの弱さと向き合い、それを克服するのに才能や若さはいらない。「意思」と「きっかけ」だけなのだ。

記:木田橋 義之(2006-03-20)