信長の経営塾

 西暦1400年代に始まり、1600年の関ヶ原まで200年続いた戦国時代。この時代の大名や武将、はたまた足軽などの雑兵(ぞうひょう)たちにとって、モティベーションの源泉は何だったか。そうした人間心理を理解し、当時の世界にあっても近代的な人事・労務システムを取り入れていたのが織田信長であろう。

 織田信長は本能寺で最期を遂げるが、それまでの勝率も8割に満たない。生涯において156戦し、113勝29敗14分(勝率7割9分6厘)だという。プロ将棋の年間最高勝率(7割6分1厘 2003年度 深浦康市8段)と大差ない。 信長は最初から「全勝などありえない」と悟っていたかのようだ。むしろ信長は、要所での勝ち方が上手であり、負け戦の見極め判断と逃げっぷりが見事であり、さらには、負け戦からの学習能力が異常に高かったのが特長だと思える。

 信長の学習能力の高さを物語る話として・・・。
 信長は自国・尾張兵の弱さをいやというほど知っていた。まともな総力戦では武田軍団はおろか、どこと戦っても負ける。それゆえ、長柄鑓(ながともやり)や鉄砲などの近代兵器を駆使することを真剣に考えた。鉄砲隊を作ろうと思ったのも、もとをただせば雑賀衆の鉄砲隊に負けたからである。また、水軍の大型甲鉄艦隊を作ったのも、村上水軍に完敗したからである。負けた分野に関しては、即座に日本一のレベルになるまで補強しているのが、信長である。

 次に現代の経営者も真っ青になる位の信長の能力主義者ぶりをご紹介したい。信長が合理的な能力主義者であったことを物語るエピソードとして「上昇意欲を失った幹部は容赦なく切った。」 信長の父の時代から織田家に30年間奉公した永年勤続者、佐久間信盛。彼は、大坂本願寺攻めの責任者であった。だが信長は、「無為無策のまま5年間をすごした」と、17ケ条にわたって信盛父子を問責している。
 そもそも佐久間信盛といえば、信長が弟・信行と家督争いをした際、一貫して信長支持の立場を貫き、それ以後、重用されてきた織田家の重鎮だ。にもかかわらず、信長は厳しい折檻状を送りつけ、そのなかで、明智光秀や柴田勝家らの業績と露骨に比較している。

 その折檻状の内容は

  • 本願寺攻撃の指揮官を命じられてから落城に至る5年間、武功は何一つなく、ただいたずらに包囲の日々を送るのみ。この無念さは何とも言いがたい。
  • 武事に未熟ならば他の者に託してでも謀略をめぐらし、それでも不十分ならば信長に報告して意見を求めるべきであった。それなのに5年間もそのようなことがなかったのは怠慢でけしからぬこと。
  • 朝倉征伐において先鋒をつとめながら、油断していて先を越された。戦機を逃したことを叱ったところ、柴田、羽柴、丹羽、滝川らはみな謝ったが、「さよう申されても自分ほどの者はめったにいるものではない」と言葉を吐いた。その高言にも似ず、今回のような行為は卑怯であり前代未聞である。
  • このように手柄がない原因の一つは、部下の育成がなっていないからである。家来の俸給を増やしたり、人材を見つけて召し抱えたりすべきなのに、その努力を怠ってきた。
  • 新たな所領を与えたときも、家来に分け与えず自分が取り込んでしまい、金銀を蓄えることばかりに専念している。
  • 第一に欲が深い。気難しく、いい人物を召し抱えようとしない。その上いい加減に物事を処理し、父子ともども武士の道に欠けている。
 過去に武功があった古参幹部とはいえ、今なお現役で活躍しない人材に対しては、容赦ない。そしてこの手紙のあと、信長は実際に佐久間父子を高野山に追放し、さらには紀伊熊野の奥まで追いやっている。息子は後日呼び戻したものの、父は許されず、晩年は哀れな死に様だったらしい。明日は我が身、こうした人事を見て、周囲の幹部は「過去の功績にあぐらはかけない」と、引き締まる思いをしたに違いない。

 信長流人事システムの特長は「プロジェクトチーム」方式であった。戦国時代、大名は家臣を召し抱え、家臣はまたその家来を召し抱え、というように、与えられる石高(米)に応じて部下を雇用し、処遇していった。織田家ともなれば古参幹部がひしめき、古参ともなれば、大勢の家来を召し抱え、それだけ大きな仕事も任された。普通ならば、新参者の秀吉や光秀は家来の数が少なく、大きな仕事が任される余地はほとんどない。

 だが、そうした階層組織にあっても、「今、一番仕事ができる人間」を「プロジェクトリーダー」として抜擢し、重要な仕事を当てるという人事をやった。そこには、過去の功績は関係なく、キャリアや年齢も無縁だ。それは、「いわなくても分かる者」であり、また先回りして動いて結果を出せる者であった。そうした人材には、山のように仕事を与え、寝る暇もないぐらいに働かせ、功績があれば恩賞をしっかり与える。それが信長の望む人材であり、組織だったようだ。

 また、信長は土地に替わる恩賞として「茶器」に着目した。恩賞として与える領土には限りがある。そこで、領土以外に与えるものが必要となり、茶器を使った。これは、「茶の湯」を許可したことも意味し、家臣としてこれほど家格が上がるものはなかった。滝川一益など部下の中には、領土よりも茶器を欲する者も少なくなかったという。これは信長一流の創意工夫だったのかも知れない。 「信長の経営塾」は正しく現代にも通ずる手法ではないだろうか。

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 出展元は忘れてしまいましたが、何となく共感できる内容です。折りしも、NHK大河ドラマ「功名が辻」では目下、山内一豊・千代に加えて、信長が重要な位置を占めています。次回からの参考にしていただきたい。

記:木田橋 義之(2006-03-14)