西安へ旅して

 この3月下旬に、定年後入会した書道教室で開催された中国西安への旅行会に参加した。至って近い隣国なのに中国は今回が始めての旅だった。考えてみると、以前に中国に行った人達からよく聞かされた話に、一旦ホテルを出たら、女性は風呂敷、男性は扇子を持っていないと用がたせないような生活環境だとか、私自身にも、中国は余りにも広すぎて行きたい場所の焦点が、なかなか定まらなかったのも事実だった。

 総勢約60名と云う大部隊で20代がほんの数人、あとは50 〜80才の弥次さん喜多さんならぬオジン・オバンの集団で、今時書道なんかやっているのは、大体そんな連中だと察していただきたい。今は週に一本ずつ直接西安と成田を往復する直行便があり、今回それを利用できたので、行き帰りは余り苦にならなかった。

 飛行時間は約4時間半で西安空港に到着したが、さすがにその広さのせいか、時間までがゆったりと流れているように感じられた。見渡す景色は、晴れだというのに黄色にくすんで見えるのは黄砂のせいだと思われた。

 「西安」(昔は長安と呼ばれ、京都の原型となった中国の都)は、西周が初めて、ここに都を定めたのが、紀元前1100年頃で、以来十一の王朝がこの地を都とし、その間およそ2000年、まさしく古都と呼ぶにふさわしい歴史を持っている。又、シルクロードの東の起点としても知られており、日本にとっては文化のルーツとして、多くの日本人遣唐留学生を受け入れたゆかりの地である。

 夕食まで多少時間があったので、まずは中国3000年の歴史を垣間見ようと「陜西歴史博物館」を訪れた。 ここには、古くは藍田猿人の化石から、明清時代の文物まで約3000点が展示されているが、現地人ガイドの話では、中国で現在国宝と定められているものが20数点あり、昔は大半ここで収蔵したものが、現在は北京、上海、台北等に分散されて3点しか残っていないと嘆いていた。

 その国宝たるや何ともえたいの知れない小動物のメノウ石や、注ぎ口が動物の口に見える急須の親分と見えるもので、今一つ日本人の私にはピンとこなかった。
 夜は歓迎宴ということで、唐代の歌舞を見ながらのディナーショーで、幕間に、琵琶・木琴・横笛で日本童謡「ふるさと」「赤トンボ」等の演奏がされたが、何となく大昔の調べを聞いているような気になった。

 翌朝は、西安から北東30キロにある中国歴代王朝の温泉保養地「華青池(カセイチ)」を訪れた。ここは、かの有名な楊貴妃と玄宗皇帝のラブロマンスの舞台となった所で、

二人が入ったという浴槽も発掘復元されているが、当時楊貴妃20代(元々は、玄宗皇帝の息子の嫁であった)玄宗皇帝60才というから、ふと丹羽文雄晩年の小説の世界を連想しながら見学した。

 後に安禄山の乱に追われ楊貴妃38才(?)の女盛りで殺されたのであるが・・・、世の中には好き者が多いのか、絶世の美女を38才で死なすのは忍びないということもあってか、実は殺されたのは楊貴妃ではなくお供の女官であって本人は尼に身をやつして日本に亡命したという実(まこと)しやかな後日談がある。その証(あかし)として山口県油谷町に楊貴妃の墓があり、且つ西安の西北40キロにある楊貴妃墓を発掘したが、衣装の類しか出てこなかったことが、伝説として今も語り継がれているようだ。

 午後は、華青池のすぐ近くにある「秦の始皇帝陵」及び世界遺産の「兵馬傭(へいばよう)博物館」を見た。まさに圧巻というか、等身大の秦朝将兵を倣して作った陶塑(泥人形)群が方形陣で約6000体並んでいる。死後の始皇帝を守るため、秦王朝軍隊を後世に残すため、殉死の代わりなど、理由は諸説あるが、その壮大さは始皇帝の絶大な権力を偲ばせるに充分だと思われた。

 多くの人の知るところだが、始皇帝は、紀元前230年に三国志で有名な韓・趙・燕・魏・斎の六ケ国を滅ぼして戦国時代に終止符を打ち秦王朝を樹立した。その後、文字・法律・貨幣・度量衡を統一、郡県制を実施、万里の長城を造る等々、多くの大事業を成した偉大な皇帝であった。若し、始皇帝がいなければ中国の統一は永遠に実現されず、後の漢、唐の繁栄はなかったと云われる。引いては、日本からの遣唐留学生も行けなかったら、今日の日本文化の様子も大いに違ったものになっていたかも知れない。

 晩年、秦以外の文字で書かれた文書を焼き払うよう命じた<<焚書(ふんしょ)>>、不老不死の薬を求め、学者に資金を出したが結果を出さなかったと怒り多くの学者を生き埋めにした<<坑儒(こうじゅ)>>など強行策をとり衰退を早めたが、近年毛沢東が文化大革命の名のもと、共産主義の徹底を行ったこととどことなく共通点を見るような気がする。然し、現在も百元紙幣の顔が毛沢東であるのが、彼に対する中国人の評価と見るべきか。

 翌26日は、中国の書の宝庫とされる「西安碑林(ひりん)」を訪れた。ここは孔子廟(霊を祭る所)をそのまま博物館にしたもので、唐代から清代の名家の直筆の石碑や墓碑が約3000点、それに唐の文宗皇帝が作らせた孔子の尚書・論語・孝経など65万字を楷書で刻ました石碑114基が保存されている。

 後述する日本からの多くの遣唐留学生が、これらを模写して持ち帰り、法律・教育・文化・宗教等の礎を築いたのである。 特に現在我々が日常使っている「ひらがな」や「カタカナ」は、遣唐使が持ち帰った漢字の「草書体」(一般にくずし字と言われる)と「楷書体」の一部から作られていることは衆知である。又、和歌や俳句の七五調は、漢詩の五言、七言詩から工夫されたものと思われる。

 帰国当日は、旅の最後の締め括りとして、遣唐留学生で有名な「阿部仲麻呂」と「空海」(弘法大師)が学んだとされる「興慶宮」と「青竜寺」に足を運ぶ。 興慶公園にある阿部仲麻呂記念碑には、次の詩が刻まれている。「翹首望東天 神馳奈良邊 三笠山頂 想又皎月圓」(仲麻呂唐上にて月を見て詠みける)と云う望郷の詩で、即ち、百人一首で有名な「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」である。ガイドに、どちらが先に出来たかと聞いたら、現地人ガイドは中国で作ったから漢詩だと云い、 日本人ガイドは日本人だから和歌が先きだと云うが、真実は判らない。

 仲麻呂は19才で遣唐使に選ばれ、その博学宏才を玄宗皇帝(楊貴妃に遇うまでは名君の誉れが高かった)に寵遇されたが、55才で帰国の途上台風にあいベトナムに漂着、後に西安へ戻り、73才で日本に帰ることなく没した。

 奈良・平安の頃は、まだ造船、航海術は未熟であったので遣唐船の多くが難波漂流し、死者、行方不明者が続出し往復無事だったのは半数位で、それこそ命がけの留学であったと云う。先日テレビか何かで聞いたと思うが、空海が福州(台北の対岸)に上陸し陸路西安までの約1300キロ行程を、当時と同じに再現しようと、或る大学教授が挑んだが、遂に途中で断念せざるを得なかったと云う。

 西安での3日間よく餃子(西安名物料理)を食べた。 これが紹興酒とグッドマッチングで、一口大のものが10種類近く出てくる。昼食では、だまってグラス一杯の青島ビアーが水代わりにサービスされるのも気に入った。

 街中は、国道16号の倍以上の幅員のある道路でも信号の有無に関係なく多くの歩行者が車・自転車・リヤカーの間を悠々と急がずあわてず横断しているさまは、さすが漢民族の何たるかを見たような気がした。空港に向かう道すがら、今一度位は来てもいいのかなと思いながら帰路についた。

記:堀 浩康(2005-04-14)