小学校「同期会」に参加して

 先週(12日)秋田で小学校の同期会がありました。秋田を代表する旅館・栄太楼(名横綱・大鵬の奥さんの実家)で行われました。今年は還暦、将に人生節目の年で幹事さんの半年も前からの尽力によって、盛大な会になりました。5クラスあって、生徒が80余名、先生も4名参加されました。卒業以来という方にも何人かお会いすることができました。会誌も発行され、これに「恩師の思い出」を投稿しました。

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          石井徳太郎先生と中谷宇吉郎
             恩師の思い出

                            木田橋 義之
 昭和31年に保戸野小学校を卒業して47年になる。あれから、中学、高校、大学へ進み、そしてホンダに入社し、この5月で定年を迎える。恩師、石井徳太郎先生は小学校1年の時に父を亡くした小生にとって、長年に亘って支えてくれた父親の一人でもあった。6年間同じクラスで同じ先生、今ではあり得ないことのようだが、それ故、生徒ばかりか父兄(母親たち)の集まりも長く続いた。ここに紅一点ならぬ「白一点」としていつも参加された市田(佐藤)信子さんの親父さんが場を盛りたてた、というエピソードも伺っている。
 秋田のお宅を訪ねた時にいつも先生から出る第一声は功ちゃんを呼ぼうか?森沢を呼ぼうか?であった。将に我々は先生を中心に結ばれていたことになる。7年ほど前になるが、在京の仲間が集まった時には、その功君と森沢さんそして山内君が先生と共に駆けつけてくれ、卒業以来という級友にもお会いできた。また時間が前後するが先生は長年にわたる功績によって、叙勲の栄誉を受けられた。教え子としてもこの上ない名誉なことだ。
 先生から「クラス名簿」をいただいた20数年前のことを紹介したい。

 名簿ありがとうございました。懐かしい名前、昔のままの先生の文字、早速ご返事と思いながら急な出張のために遅くなってしまいました。
 小生、昭和41年、本田技研に入社しました。45年まで三重県の鈴鹿に、その後埼玉県の狭山に移りました。車の生産技術を担当しています。もう会社に入って13年にもなりました。会社はお茶で知られる狭山、家は川越、全国に数ある「小江戸」のひとつでもあります。「九里四里うまい十三里」と謡われるさつまいもでも知られています。これからの季節、晴れた朝には富士山がくっきり眺められます。スポーツ仲間に恵まれ、野球、テニス、スキーなどを楽しんでいます。
 名簿を拝見し、全部で65名とはびっくりしました。中にどうしても思い出せない方がいます。きっと低学年の時に転校された方でしょう。6年間同じクラスで同じ先生、もうこういうことはあり得ないそうですが、途中2回ブランクがあるんですね。2年の時に先生が確か秋大の研究生として出向された時1学期位でしょうか、女の先生(菊地スノ先生)のお世話になりました。5年の時には先生が体調を崩され、この時も一学期位でしょうか、クラスが別れ別れになって私たちも月並みな苦労をしたように思います。今思えばクラスの結束が強かったがために、たまに集まってはぐちをこぼしあったものでした。
 道徳の時間ができた時に先生はよく「お話し」をしてくれました。今でも覚えているのは「アラジンとランプ」まだテレビもなかった頃、どんなにか私たちの心を豊かにしてくれたことかと思っています。6年になってからは今でいう補習をしてくれました。私はよく「考え過ぎる」と言われ鶴亀算などに四苦八苦したものでした。授業が終わってからも何かにつけ難問をだされて、私たちは早く帰って遊びたい一心でわいわいがやがやしたものでした。先生が宿直の時にはよく学校を訪ね、当時最高のおやつである甘納豆やバターピーをご馳走になりました。久木先生が酔っ払ってきて、暴れたものでした。その時のからまれ役が佐竹君でした。他によく実験をしたこと、飴や甘酒を作ったり、測候所に何回も聞きに行ったこと、80周年記念行事や校歌ができたこと、模型飛行機大会や冬休みの工作教室、鍋こ遠足や冬のスキー、楽しみ会、卒業後に亀の町のお宅に伺ったことなど思い出は尽きません。
 それにもう一つ、
だいぶ前のことですが、岩波の「図書」に『中谷先生の思い出』というエッセーを見つけました。その時ふと先生のことを思い出し、心に留めておりました。私は先生から伺ったごく一部を覚えていただけですが、又中谷宇吉郎がどれほど偉大な人物だとは当時は知る由もありませんでした。
 確か、
中谷宇吉郎先生が保戸野小学校に講演に来られ、先生はその一部始終をテープレコーダーに録音されました。秋田を離れるに当って再び保戸野に寄られた中谷先生がわざわざ車からおりて挨拶をされた、というようなことを私たちに話してくれました。
 私の記憶はただそれだけなのですが、そんなこともあって、寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎、岡潔など人間味あふれた科学者の文才に興味をもったものでした。
 「図書」をもう一度読んで見ました。昭和30年とありますから、それは私たちが6年になった時、中谷先生が来られたのもひょっとして、同じ頃ではないでしょうか。またその時のテーマは何だったのでしょうか。先生にもすばらしい「中谷先生の思い出」があるに違いありません。いつかお聞かせいただければ幸いです。 (昭和55年10月)

 あれから25年余りが過ぎ、先生から中谷宇吉郎先生の講演などについて伺う機会もあった。石井先生は当時、秋田県の理科研究会の幹事長の職にあった。教師のみならず生徒や父兄を対象にした行事も企画し、幅広い活動をされていた。日本を代表する著名人を招き講演会も開催した。榊原仟(しげる)博士もその一人であった。心臓外科の権威としてその後の医学界をリードされたことは記憶に遠くない。その時のテーマは「妊娠中絶」だったとか。
 以上は小生が伺い知った一部である。石井先生は当時30そこそこ、一体どこにそのような見識や情熱が秘められていたのだろうか。
 記念誌の発行に当たり、つたない思い出を紹介させていただいた。 石井徳太郎先生初め恩師の先生方そして同期生、同級生各位の今後益々のご健勝を祈って筆をおきたい。                  (平成15年2月)

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 ちょうど梅雨の晴れ間に恵まれ、帰り道「秋田駒ケ岳」に寄ってきました。お目当ての「タカネスミレ」や「コマクサ」も楽しめました。
「フィット」も絶好調でした。燃費の「その後」を報告致します。

  (2003-07-23 現在) 
  走行距離  5,762 Km
  区間走行  1,424 Km (秋田・田沢湖)
  給油量    66.4 L
  燃 費   21.4 Km/L
  全燃費   20.2 Km/L

記:木田橋 義之(2003-07-18)