「千人針」
父と母、そして平和への願い

 15歳年上の姉が投稿したエッセーが某全国紙の投書欄に掲載されました。たまたま起きたことをメモ書きして送ったものでした。登場する父と母は私にとっても同じ、子は兄弟同然に育った7歳年下の甥です。父とは数少ない思い出のもっと先のこと、母からも聞いたことのなかったことでした。姉からもう少し聞いて、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド女のレポート」に投稿しました。

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        子の羽織から「千人針」の布が
 2年程前から近くの公民館で開かれている手芸教室に通っています。10数人の仲間とともに、人形、縫いぐるみ、バック、掛け物などを作っています。使わなくなった衣類を持ち寄り、これが季節に応じた飾りものなどに変身します。何回かやっているうちに勘所もつかめるようになったのか、身の回りの人にもお分けして喜ばれるようになりました。

 4、5日前に先生から今度作る「ふくろう」をデザインした掛け物を見せてもらいました。紺の絣の模様が「ふくろう」に大変よくマッチしていました。似た材料はないかと探したら、息子が小さい時に着た四つ身の羽織が見つかりました。これは、40年以上も前に母が孫へと縫ってくれたものでした。

 早速ほどいてみましたが、驚いたことに、襟の芯は父が戦地にもっていった時の「千人針」の「さらし」の布でした。糸は既に解かれていましたが、目印にした「はんこ」の朱肉の跡があり、すぐ分かりました。

 父は軍の召集で戦地に行き、無事帰ってきましたが、職業軍人であったため、終戦と共に公職追放され、たくさんの子供を抱えてその日から生活苦が始まりました。知り合いから畑を借りて野菜を作ったり、病院の夜勤をしたり無我夢中の生活でした。

 母は若い時に専門の職人について裁縫を習い、その後、父に嫁ぐ前から呉服屋の仕事をしてきた、いわばその道のプロで、私たち家族のためにも多くの着物を縫ってくれました。そんな母でしたから、「千人針」の「さらし」は格好の材料と襟の芯に利用したのでしょう。

 思いもかけず、優しかった父や母のことを思い出し胸がいっぱいになりました。
「千人針」は当時、女たちが戦地に赴く父や子そして夫や兄弟の無事の帰りを祈って、一針一針縫ったものでした。その心は洋の東西を問わず、今もって変るはずがありません。あれから既に半世紀以上が経ち、日本は再び戦火を交えることなく、豊な国に生まれ変わりました。

 ただ、目を外に向けると、地球のどこかで戦いがあり、家族を失う悲しい出来事は止むことはありません。60年以上も前の「千人針」を手にとって、平和の尊さに感謝すると共に、世界に本当に平和な日がくることを祈らずにはいられませんでした。
              (秋田県大館市 K.N. 75歳)

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 以上を投稿したのは昨年の11月、そろそろイラク情勢に暗雲が立ち込めてきた頃でした。そして、世界のおおぜいの人々の願いに反して、戦争は始まりました。

 イラン・イラク戦争の時に生まれたという22歳のイラク女性の『もしこの戦争で負けたら、私にとって戦争しか知らない人生になってしまう』という悲痛ともいえる叫びが報道されました。 泥沼化も懸念される今日この頃ですが、テレビでしか見たことのなかった「千人針」を手にして、改めて早期解決を願わずにはいられませんでした。

記:木田橋 義之(2003-04-15)